2008.3.22
【京都府】
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)(Map)
プロ野球開幕、春の甲子園開幕と時を同じくして「京都の観光シーズン開幕」です。
一週間前とは明らかに人出の勢いが違います。行きの電車座れなかったもんなぁ。「エッ、そんなことで?」そういう実感こそ大切にすべきであると思いますし、散策を終えて何度か寄っている喫茶店も満席でした……
違う店ですが、今年初めてアイスコーヒーを頼みました。そりゃ、そんな季節にもなれば人が出てくるのは当たり前ですよね。
上写真はお寺の前に貼られているポスターを撮った「携帯写真的」なひどいもので申し訳ないのですが、この絵がないと始まらないと思い載せました。
パンフレットに「空也の寺」「源平両氏の中心史蹟」とあります。前回時間が遅くて拝めなかった空也像を見にきました。
どうもわたしには、写実的な像なのですが何だか寓話的な作り物という印象が強く、感銘を受けるに至りませんでした。
鹿の杖を持ち、金鼓を下げ、唱えた念仏から六体の阿弥陀が現れたという「伝説」をそのまま木造に表現しただけ、との印象以上のものを感じることは出来ませんでした。
そんな印象とは逆に平清盛像は、いまにも動き出しそうな生命力のようなものが感じられ、とても引き込まれました。
これは後でパンフレットから知ったのですが、空也という人は醍醐天皇の子息で西暦900年代の方で、この像は鎌倉時代(1200年代以降)の運慶(仏師で、先日運慶作と言われる仏像が海外のオークションに出て話題になった)の四男の作品と言われるそうです。
これはまるっきりの想像ですが「歴史上の人物を彫ってみよう!」という流れの中で生まれた、まま出来のいい作品として残されてきたのであるまいか、などと思ったなんて言い過ぎでしょうね……
空也に関連する寺は(神社だったか?)繁華街の四条にある高島屋の裏にもあったりするので、人々に愛されてきた人だと思っており否定するわけではありませんが、皇族の出というだけでフィルタをかけて見てしまう姿勢は良くないのかも知れない、と自分でも思ったりします。
「森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日あることを喜び、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えた」(パンフより)とあるように、高僧と言われるような権威とは無縁で、市民の中に入って「念仏の祖」と言われるほど民衆のために尽くされた方だそうです。
世間では「市の聖」(いちのひじり)と呼ばれ、尊ばれたそうです。それは人においての「誉れ」であると思います。
人物像についてはそんな認識はあるのですが、あの木造にはどうも……
正月らしいねぇ、と飲んでいた「大福茶」(紅白の小梅と結び昆布が入っている)ですが、ルーツは空也が疫病で苦しむ者にそれを与え念仏を唱えたことから来ているのかも知れません。
現在でも「皇服茶」として、正月にふるまわれているそうです。
少し前の大河ドラマ「義経」で義経(タッキー)が平清盛(渡哲也)を「六波羅様」と呼んでいたのが気になっていて、どこかで習った「六波羅探題」に由来するのだろうか? に疑問ついて、ようやく調べる機会を得ました。
六波羅とは、空也が創建した西光寺が後に六波羅蜜寺と改名され、この付近の地名になったそうです。
この付近に平家が供養塔を建てたことから六波羅邸が築かれ、清盛の時代まで「六波羅様」と呼ばれるようになったようです。
その後、平家の都落ちの後は源氏の所有物となり、京都守護職としての役所「六波羅探題」がこの地に置かれたそうです。
──何か、とってもスッキリしました。
ちなみに寺の名前にもある「六波羅蜜」とは、「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」なるものだそうです。
長くなるので、興味のある方は調べてみてください。
この地は洛外(都の外)であることを考えると、その当時武家はそう簡単に洛中に屋敷を構えることがかなわなかったのではないか、と思ったりします。
観光客や彼らを乗せたバスがみな黙々と坂を登っていきます。
そう「めざせ、清水寺」です。
そんな人たちが密集した清水寺の状況を想像すると、ゾッとします……
そんな流れを横切って五条坂付近の路地を歩いていると、河井寛次郎記念館などがある陶芸家が集まっている地区があります。
清水焼の流れの工房が多くあるのかも知れませんが、ちょっと陶芸には暗いので定かではありません……
その近くにレンガ造りの建物があります。写真は外壁だけが遺構として残されているもので、建物の一部ではありません。
そんなレンガ塀一枚を残すために木で支えられていたりするので、由緒のあるもののようです。その壁にわざわざ街灯を設置してあるところなんかに、粋さを感じたりしませんか?
智積院(ちしゃくいん)(Map)
また来てしまいましたよ、長谷川等伯(とうはく)の襖絵を見に。
イヤー、もう声が出ませんね。
キンキラした絵って好きではないのですが、この絵はずいぶんと色あせていてちょうど「枯れた迫力」を感じられるからか、たまりません。大好きです。
わたしもちゃんとした背景を分かっていないのですが、利休や秀吉の名前が出てきたりするので安土・桃山時代の人物(作品)で、よく耳にする狩野派(パンフレットより:威圧的か装飾的かの傾向に走った狩野派)に入門したそうですが、作風が合わずに対立していたそうです。
写実的な部分と、デフォルメ(いい加減と言うか、大胆に隠す構図と言うか)された部分が何の違和感も感じさせず調和して観る者に迫ってくるとでも言うのでしょうか、説明を放棄しているようで申し訳無いのですが、何だか「魔法」のようです(魔法にかけられてしまうわたしです)。
──以前紹介した、お猿さんが片手で木にぶら下がり手を伸ばしている猿猴捉月図も長谷川等泊によるものだそうです。
ちょっと、もう少し勉強してから再チャレンジしたい絵です。
何だか本日は着物の女性が多いと感じたのですが、このお寺には「着物の方は拝観無料」の看板が立っており、春の花灯路(夜間ライトアップ)が日曜まで行われている一環で、東山地区一帯でそんなキャンペーンをやっていたのかも知れません。
しかし、その着物に華やかさを感じなかったのは、春着物の色柄は控えめのものを着るなどの作法があったりするからでしょうか?
この点についてご存知の方がおいででしたら、ご教授下さい。
着飾った姿が「春の陽気に太刀打ちできていない」と言うことが不可解で、逆に「春の空気を引き立てる」意図であるならば納得出来るような気がするもので……
右写真は立ち入り禁止区域をその手前から撮ったものです。
その入り口にしゃがみ込んであれこれやって、もういいやと立ち上がって振り返ったその場に、住職さんらしき方が立っておられ、わたしの気が済むまで待ってくれていたようです。
恐縮して思わず「スミマセンでした」と声を発しましたが、無言で入っていかれました。
あまりいい写真とは思えませんが、このエピソードを書くために掲載しました。迷惑な話ですものね……
いつも思うのですが、いくらカメラを構えていようがズカズカとフレームに入ってきても構わないとわたしは思うのですが、どうも遠慮する習慣があるので、ハプニング的ライブな写真って撮りにくい気がしています。(それは遠慮してくれてるのに失礼ってもん?)
三十三間堂(Map)
是非再訪したいと思っておりました。
もう、静かなうなり声を上げ、手を合わせるしかありません。本当にシビレちゃいます。
自分で気に入ったものを他人に薦めることはしても、同意を求めたりはしないつもりなのですが(広隆寺の「弥勒菩薩像」がいくら好きでも)、この三十三間堂の千手観音像の前で何も感じない人はどんな人なんだろう? と逆に話しを聞いてみたい気がするほど圧倒されてしまうわたしです。
全部で1001体ある像を彫った人たちの祈りが、もしすべて一時に我が身に伝わってきたとしたなら卒倒してしまうのではないか? と思ったりもします。
創建は平清盛によるものだそうですが、幾度の修復を繰り返し現代まで守り継がれてきたということが「無常であっても無常ならざるものへの希求」(浄土を求める気持ち)が連綿と続いていることの証しであり、わたしたちが感銘を受ける最も大きな理由であると思われます。
現世では逆らえないことであるから死後の浄土を願うという気持ち、というものは理解できる気がします。
それを信じていれば、安らかな最期を迎えられるであろうことも……
しかし、そのために観音様が1001体必要であるならば、地上は観音様と亡きがらで埋め尽くされてしまうようにも思えます。
でもそんな絵を想像してみると、不思議と自然に思い浮かんできました。もちろん、現実になって欲しくない絵です──戦場のような絵とでも言うのでしょうか。
それがわたしの「おそれている状況」なのでしょうか、紙一重という天と地を垣間見られた気がするのも、心を解ける場所にいるからかも知れません。
しかし、ここで気持ちをしっかりと持たなければ「神・仏の虜」になってしまいます。
何が言いたいかというと「すがる」のではなく「苦しいときに祈る」という、日本人の「神仏とのスタンス」に魅力を感じている、とでも言うところでしょうか。
来月予定している沖縄編で、触れられたらと思います。
「もう拝観終了なんです」と警備員に説明を受ける観光客が「それじゃ清水寺に行こうか」と、これから(午後4時)向かう人がおります(この日清水寺はライトアップしているので余裕なのですが)。ホント、清水寺恐るべしです……
豊国神社(Map)
秀吉創建の大仏があった場所です。
この石垣の岩は3〜5m程度あり、相当デカイです。どうやって運んだんだろうという巨岩の石垣が、現存しているもので2〜300mくらい続いています。
「太閤検地」で厳しく取り立てられた税を、こんな石垣や大仏建設に使われたと知った人たちはどう思ったのでしょうか。
何度も再建されたそうですが「京都に大仏はいらぬ」との天命なのか、その度難に遭い石垣だけが残されて現在に至っています。
この西側に大仏様の正面の通りという「正面通り」の名称が今も残されています。
大仏殿跡地に、秀吉を祀る豊国神社があります。
そこの絵馬は、ひょうたんに願い事を書きます。芸事にご利益があるそうで、役者さんや歌手の札が見本として飾られていました。
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