2008.3.28-29
【京都府】
上津屋橋(こうづやばし)(Map)
やっと(?)「毎日が休日」に突入したので、前々日に車と宿を予約して郊外に足を伸ばしました。
木津川は三重県の青山高原の源流から奈良と京都の県境付近を流れ、京都と大阪の境付近で桂川(鴨川も合流)、宇治川(琵琶湖からの流れ)と合流して淀川となって大阪湾に向かいます。
ここから下流の「東西に流れる川」に対して感じる違和感というものをご理解いただけるだろうか?
生まれ育った関東平野では、相模川、多摩川、荒川など、川はみな北から南に流れて海にそそがれます。それを「縦に流れる」と表現するならばここでは「横に流れている」わけですから、太陽との位置関係や町並みの設計や家屋の建て方から受ける違和感にとまどってしまい「異国の印象」すら抱いてしまいます。
関東の川の両岸から川の方角は東もしくは西向きになるので、何となく両岸の家並みも川を向いていますが、ここの南岸から北側の川に向いた大きな窓を持つ家は少なく感じます。
人間にも体内に磁石のようなものを持っているようにも感じられ、わたしがサケの子どもだったら間違ってもこの川には戻って来ないだろうと思います。
──人間にもそんな方向感覚って大切だと思うのですが、方向音痴の人ってそういうことって感じないのでしょうか?
上述の三河川の合流地点から5km程度上流に、増水すると踏み板が橋脚から外れる「流れ橋」の上津屋橋があります。
板が外れてもバラバラにならないように、ワイヤが通されているのが写真から分かると思います。
この橋の存在を知ってからずっと、映画『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)の撮影場所ではないか? と思っていたのですが、もう記憶があいまいで分かりませんでした。再見してみます……
海住山寺(かいじゅうせんじ)(Map)
無理やり作ったと思われる道路は、急カーブ、急勾配で山を登っていきます。「この地にお寺を開く理由って何なのだろう?」と調べてみると、ここは奈良にほど近く一帯は奈良の文化圏に含まれ、奈良時代の有力豪族(橘諸兄:たちばなのもろえ)の本拠地で、735年に間もなくこの地に遷都することになる聖武天応の命によって建立されたそうです。
この五重塔は鎌倉時代建立と伝えられ、日本で2番目に小さいものだそうです。まさに必要最小限の五重塔との印象です(写真は塔の1階部分)。
恭仁京跡(くにきょうあと)(Map)
740年聖武天皇により平城京から遷都されたものの、完成をみずに743年に紫香楽宮(しがらきのみや)に移り、744年に難波京、745年平城京に戻ったとのことです。
わずか3年間の都だったり、転々としたあげく戻ったりと何のための遷都だったのでしょう?
おそらく有力豪族間の権力争いに翻弄(ほんろう)されたのかも知れませんが、庶民には迷惑な話です。
平安京(京都)遷都(794年)が数十年後にあったことを考えれば、奈良政権の末期的状況の現れのようにも思われます。
ですが、奈良時代とは710年〜794年とされているので、権力抗争に明け暮れた時代だったと言えるのかも知れません。
「恭仁宮大極殿跡」の石碑が倒れたまま放置されています。表には正規のものが立っており、別に荒れ果てているわけではないのですが、こんな姿で放置しておくのも何だかなぁ、と思ってしまいます。
笠置寺(Map)
この寺の起源は古いようで、弥生時代の祭祀に使用されたとされる石の険が出土したことから、当時から巨岩が信仰の対象とされていたと考えられているそうです。
寺院の建立は670年代で、修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)が詣でたという記録もあるとのこと。
境内というか、山肌に露出する巨岩をめぐる散策路全体が信仰の対象とされる修験道の修行場のような趣で、結構ワイルドな道です。
鎌倉時代末期には後醍醐天皇が立てこもり、鎌倉軍に討ち滅ぼされ寺も焼失したそうです。
まさか彼(天皇)は自分の足で登らなかったでしょうが、かなり急峻な山の上にあります。
岩船寺(がんせんじ)(Map)
「花の寺」とうたっているだけあって、決して大きなお寺ではないし、花の数が多いわけではないのですが、その配し方が見事と言うのでしょうか「センス」が素晴らしいと感じました。
今の時期は、梅が咲きモクレンのつぼみが開花の準備をしている早春という季節感ですから、花は決して多くありません。
ですがこの地ではきっと、季節の移り変わりを花の(木々の)姿から日々感じることができると思われ、見事に設計された庭園という印象を受けました。
写真で切り取る風景が季節ごとに変わっていくのだろうと、通ってみたいお寺のひとつに加わりました。
右下写真は、楓と思われる枝に新芽が芽吹いている絵になります。これが紅葉したらきっとキレイなんだろうと、想像でも楽しめる境内です。
ここも聖武天皇の命により、行基(奈良時代の僧侶)によって建立された(729年)そうです。
情勢の流れ的には、奈良の盆地から離れたいという機運が高まっていた時期だったように思えます。
この辺りは当尾(とうの)と呼ばれ(浄瑠璃寺を含む)、付近には当尾石仏群とされる鎌倉時代の石仏(野仏)や石塔が多数残されてていて、この日も石仏をめぐって散策する人が結構出ていました。
やはりその印象も奈良盆地にある「山の辺の道」の散策路に近いものがあり、現在ここは京都府ではあるのですが、奈良の文化圏であることを感じさせてくれます。
平安京に遷都されてからはこの辺りへの政府の関心も薄れ、鎌倉時代末期まで野放しだったのではという気もしましたが、それは歴史教科書で扱われていなかっただけで、関心があるならちゃんと勉強せい! ということですよね……
浄瑠璃寺(Map)
平安時代藤原氏の創建のよるものだそうで、建造物は三重塔のある東岸「此岸」(しがん:現世)から池をはさみ、西の彼岸の本堂にまつられる阿弥陀仏に来迎を願う」ように配置されていて、春・秋の彼岸の中日には彼岸の阿弥陀仏の後方へ太陽が沈んでいくとのことです(写真は東岸から西方浄土の阿弥陀仏がまつられる本堂をのぞんでいます)。
──平等院の鳳凰堂もそういった思想の元に建てられているとのこと、知りませんでした。また行ってみます。
本堂には9体の阿弥陀如来像が安置されています。それは「九品往生」(くほんおうじょう)思想に由来するそうで、東京の「久品仏(くほんぶつ)」の由来も同様か? との連想しましたが、確かめに行きたいと思います。
大河原 沈下橋(Map)
「恋路橋」と、どうも新しい小さな石碑がありました。
この橋の対岸には「恋志谷神社」があるそうで、そんなところからのネーミングと思われます。
わたしは、渡りませんでしたが……
前述の上津屋橋同様、洪水時に流されにくいよう簡素な構造の「沈下橋」で、四国(四万十川、吉野川)でよく見られました。
ここもかなりの暴れ川だったことが想起されます。
生駒山(Map)
下から山を見上げて「きっと眺めがいいんだろうなぁ」とずっと想像していたのですが、想像通りの見事な眺めでした(大阪市街を望む)。
東京にはこんな場所はないので、とても新鮮な景色に映りました。
別にキレイな景色ではないのですがね……
0 件のコメント:
コメントを投稿