2007/06/30

京都の「現在」を縦断する散歩道──高瀬川

2007.06.30
【京都府】

 高瀬川(二条〜四条)(Map)


 今回は少し北に戻り、四条や先斗町などを歩いた方は目にしていると思われる、街中を流れる心休まるせせらぎの高瀬川を下ります。
 高瀬川を北から南へ歩くという切り口なので、いろんなテーマが混在しており、とりとめのないものになっています。
 今の季節には納涼床が張り出している鴨川沿いの人工水路、禊川(みそそぎがわ)からさらに分岐しているのが(上の写真が分岐点で、左奧の柵方向へ)、高瀬川です(右奧にチラッと見えるのが二条大橋)。
 秀吉亡き後の豊臣家主導で、資材(石材や木材)運搬のために造られた水路だそうです。
 その最上流がここ二条大橋付近にある船溜まり「一之舟入」(右写真)です(二条と御池通の間)。水深が浅いので、右側のような底の浅い高瀬舟が使われていたそうです。
 すぐ下流に、佐久間象山、大村益次郎遭難のモニュメントがあり、くしくも前出の「幾松」(桂小五郎が奥さんにかくまわれた料亭)の前だったりすることからも、高級料亭で密談という歴史は幕末から始まったのではないでしょうか。
 田舎侍が都に出てきたら、お茶屋で一席持ちたいと思う気持ちはとてもよく理解できるのですが……(わたしも、手を挙げています!)


 上の写真は、市役所前の御池通の噴水です。
 もうじき祇園祭の山鉾がここを通ります(山鉾巡行7月17日)。
 一度くらいは、とも思うのですが、行きの電車から凄そうで怖い気がしています……
 その前夜祭となる「宵山(よいやま)」の方が、気分的には盛り上がっているようです。
 3日前を「宵々々山」と言うそうで、クリスマスの「イブイブ」よりも気の早い京都の人は、やっぱり日本人気質のルーツなのかも知れません。

 三条通を渡り一本目の路地(右側)にある酢屋というお店で、ここは海援隊屯所となっていた場所で「龍馬寓居之跡」の石碑も立っています。
 観光客と思われる年配の方々は(3組ほど)、何の関心も示さず通り過ぎて行くので「そういうのは、もういいや」とかいう心境なのかと考えてもみましたが、まあ単に興味が無かったのだろうということに……
 確かにここは京都一の繁華街で、芸妓さんが集まる歌舞練場があったりしますし、話題に事欠かない場所柄ですから。

 右下は土佐藩邸跡に建つ小学校ですが、現在は使用されていないようです。
 門前の橋も含めてとてもいい雰囲気を出しているので、史跡にしようとしているのかも知れませんが現在は近寄れません。

 この1本先の路地を右に入ったところに「新福菜館」という中華料理やがあって、そこのラーメンのスープがすごく濃い目の醤油味で、こちらに来て醤油味を欲していた舌にとてもマッチして、クセになっています。スライスと言っていいほど薄切りの焼豚が結構入っていて、満腹感得られます。


 京都で何食ってるんだか? なんて言われそうですが、一人で入れる店ってそんなもんだって……

 四条通を越えると、急に賑わいがなくなり風俗店がしばらく目立つのですが、(写真はありませんが)また料亭が軒を並べはじめます。
 印象からすると、こちらのお店の方が落ち着いていて、通好みというかお忍び向けなのかもしれません。








 涉成園(Map)


 五条通を越えて、先日行けなかった東本願寺の別邸「涉成園」(しょうせいえん)に立ち寄りました。
 徳川家光に土地を寄進してもらった東本願寺の上人さんが隠居所としたのが始まりだそうです。
 門を入った正面で迎えてくれる石垣です。何を表現したいのかは不明でしたが、受けたインパクトはとてもいい印象だったと言えます。


 幾度も火災に遭い、建て直されてきたそうですが、現存の建物を建築した人のセンスでしょうか、心休まる空間を質素に演出していて、銀閣に通じる「安らぎ」に包まれるような空気を提供してくれます。
 どの建物も外観は立派なのですが、使われている柱はみな必要最低限の太さしかないのでは、と思えるような細身の木材が使われています。
 東本願寺という本山の寺が示さねばならない威厳と、実際の心のあり方の両面を対比させる意図とすればそれは成功しているのではないかと思われます。ですが、明治天皇の休息所に使われていたといいますから、一般に公開されてから日は浅いという気がします。
 上は「傍花閣」という建物で、2階に上がって花見をするためのものと思われます。そんなバカバカしいものをと思う反面、自分の庭に池と花とそんな建物があったらと、思わされるところがまさしく術中です……




 高瀬川(五条〜七条)(Map)

 涉成園から高瀬川に戻ると、そこには楽園が待っていました。五条にも花街があり、置屋やお茶屋が高瀬川沿いに並んでいます(そりゃ楽園だ)。
 ここにも五条楽園と言う歌舞練場があるそうです(未見)。
 五条大橋のたもと辺りで「人型流し」の準備をしていました。
 市比賣神社(いちひめ)の水無月祭だそうで、水面に灯ろうを立て下流には網が張られていたので、この川に人型を流すようです。
 今回は市比賣神社と、人型流しを別モノとして見ていたので、そのつながりを認識していませんでした(勉強せんと!)。
 次回は、時間を調べて流すところを見に来たいと思います。



 五条大橋と七条大橋の間に正面橋があります。
 この正面とは、先日の京都国立博物館近くの秀吉を祀る豊国神社にあった大仏殿の正面に当たるので呼ばれるようになったそうです。
 家康によって秀吉の痕跡は消し去られましたが、通りの名前は残されています。ちなみに大仏は、落雷で焼失したそうです。

 四条から七条の川沿いには、外人向けの安宿が点在しています。今どき、日本人観光客は泊まらんだろうと思われる宿を外人向けに提供しているようです。観光には便利な場所ですから、利用者も多いかも知れません。

 こんな橋がありました。渡れるとは思いますが、落ちたらどうするのかしら……



 高瀬川(七条〜八条)──崇神(すうじん)(Map)


 京都を歩き始めた頃、暗くなった時分に京阪七条駅からJR京都駅まで歩いたことがあって「京都駅近くなのにゴーストタウンみたいだ」と感じたことがありました(写真の中央奥が京都タワー)。その時は「再開発で買収済みの土地をフェンスで囲ってある」と思っており、工事が始まる前に写真を撮りに来ようなどと考えていました。
 その後何かを調べている時、その地が被差別地域であることを知りました。
 関東出身の自分はこれまで、実体験として接して無かったこともあり「行ってみなきゃ分からない」という好奇の面が強くあったのも事実です。
 客観的にみれば、自治体主導による再開発事業の準備が進んでいると見受けられるのですが、まなびセンター(子どもたちが集まるような施設)前にある「負けてたまるか」の石碑を見て、全身に痛みが走り何も言葉が出ませんでした……
 どういうことだろうと思いながらも、歩くうちに理解できてくる「自治体(世間)の隔離意識」と「世間から公然と差別を受けている人たち」を隔てる大きな壁があのフェンスなのだと思えました(あれ、自治体の管理と思われます)。
 わたしはまだ、そんな意識・歴史をきちんと理解できないでいるのですが、現代的な都市再生の基本に従い(?)、周囲の七条通(大通り)沿いから再開発が始まっています(東京だったらおそらく「お金」でゴリ押しして強引に「さら地」にしてしまうのだろうと思ったりしました)。でもそんなことでは、解決にならない問題だと思います。
 わたしには、あのフェンスがベルリンやエルサレムの壁のように思えましたし、そのようなものが日本にあることに驚きましたが、でも、京都ならあり得るとも思えました。
 良くも悪くも「島国根性」が強く残る土地がらゆえ、「差別の意識」(自尊心の強さ?)が最後まで生き残るのもこの地なのかも知れない、と感じたのだと思います。
 だからこそ「中に入り込めれば、もう出たくないほど心地よい『ムラ』なのだろう」という第一印象や、「自負の強い」街から受けるインパクトが脳裏から離れないのかも知れません。
 しかしそれが、京都のいい面であり、良くない面であると思うし、それは日本人全体の問題であり、自分自身への問いかけであると認識しているつもりですが、人を納得させられる答えを出せるかの自信はありません。

 下の写真は「ひかり公園」と表記された場所です。
 行くまでは、単なる新幹線が見える公園だろうと思っていましたが、お上の命名なのか、住民の希望なのか……
 何で、そんなせんさくをしなければならないのでしょうか?

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

高瀬川、いいなあ。
なぜか最近、こういう風景にくいついてしまう自分を感じています。
子供の頃、近くを流れていた玉川上水に沿って自転車を走らせたことを思い出しました。
「この流れに沿っていくと、どこに着くんだろう?」
しばらく走ると、当然ながら知らない場所が次々と現れ、日も暮れてきて心細くなり、引き返したことを思い出します。その頃の自分の行動範囲なんてたかが知れているわけですが、そこから出ていく時の期待と緊張感。忘れられません。

佐久間象山と大村益次郎。私はよく知りませんが、二人ともすごい方だったようで。この時代は私にとって魅力的な人が多いですが、このお二人もその中に含まれます。しかし、先日は岩波文庫の福沢諭吉の本を2冊買ってしまいました。
まだ読み始めてませんが、今読んでいる本を早く読み終えてとりかかろうと、ちょっとわくわくしております(わくわくする内容なのかはわかりませんが)。

被差別地域のお話は、ちょっと血の気が引きました。
日本にも・・・そうか。人間ってそうなのか・・・。
「全身に痛みが走り・・・」の表現も、現場を体感して出てきてしまうんだろうな、などと推測しかできません。
シチュエーションは違いますが「砂の器」を思い出しました。切ないです。
そして昔、転校した先でしばらく村八分状態にされたことも思い出しました。
差別する側が大勢ならば、そこではそれが「正義」になるわけで、周りもその正義に流れて行きます。
明らかにそれにのっかってるな、という奴に「それ、本気でやってるの? 何が面白いの?」と何度か聞いたことがありました。残念ながら「何言ってんだよ、バーカ!」って感じで、まるで話になりません。
正しい、正しくない・・・そんな次元じゃないんだよな。早く大人になりたい、と思ったものです。
でも、話にならなかったのは子供だったからではない、と大人になってから(?)分かりました。
でも、自分も同じ人間だから、知らないうちに逆の立場に立つこともあるんだろう、などと思うとそれも切ないですが。
現実はいろいろありますが、できるだけキレイなものを見て、感じて、年をとりたいものです。

mizu さんのコメント...

 中学生のころ、差別用語に響きの似たあだ名を付けられた先輩がいて、母との会話で出たそのあだ名を耳にした母に「そんなこと言っちゃダメなんだよ!」と、予想もしてない強い口調で怒られた事がありました。それがどういうことなのかを年数を経て知った時に、その母の態度の意味を知ったという経験がありました。
 教科書と、身近な世間での経験がない者には理解不能な状況であると思います。
 でも転校生って、ある意味お互いのリトマス試験紙的な性格があるような気がして理解できる面がある気がします。転入してきて上手くやれる子、できない子。受け入れ側も同様で、上手くできた時には見知らぬ土地の話しに心躍らせたりして、得した(子供心には世界が広がったなどとは思わないでしょう)気分に浸れた覚えもあります。
 でも、われわれの時代には先生が仲立ちしてくれた「これからは、仲良くしようね」という和解というものがありました。それはおそらく、指導要綱の中に「差別的な扱いをせず、きちんとしつけること」的な一文があったのではないか? とも思います(教職員組合が共産党系だったということもあるかも知れません)。
 そんな空気が希薄になってしまったから、近ごろのテレビなどでよく見かける「これ、公開のいじめでしょ?」と思えるものを、バラエティと称して放送できる気分になっているような気がしています。
 人は、他人との差別化をどう認識するのかによって自己を正当化している面があると思うので、はなから差別意識を禁ずる事は無理と思われます。
 ならば、きちっと正面からがっぷりと向き合うべきなのではないかと、思うようになってきました。
 差別の歴史から現状まで、ちゃんと理解させた上で各個人に考えさせるべきではないか? と思うようになりました。
 表沙汰にせずに、おんびんに済まそうとする方向にはたらくベクトル自体が問題を深刻化させているように思えます。
 いただいたコメントに意志の力を感じたので、こちらもリキが入ってしまいました……(何か前にも書いた内容だという気がしてきましたが…)