2007.06.30
【京都府】
高瀬川(二条〜四条)(Map)
今回は少し北に戻り、四条や先斗町などを歩いた方は目にしていると思われる、街中を流れる心休まるせせらぎの高瀬川を下ります。
高瀬川を北から南へ歩くという切り口なので、いろんなテーマが混在しており、とりとめのないものになっています。
今の季節には納涼床が張り出している鴨川沿いの人工水路、禊川(みそそぎがわ)からさらに分岐しているのが(上の写真が分岐点で、左奧の柵方向へ)、高瀬川です(右奧にチラッと見えるのが二条大橋)。
秀吉亡き後の豊臣家主導で、資材(石材や木材)運搬のために造られた水路だそうです。
その最上流がここ二条大橋付近にある船溜まり「一之舟入」(右写真)です(二条と御池通の間)。水深が浅いので、右側のような底の浅い高瀬舟が使われていたそうです。
すぐ下流に、佐久間象山、大村益次郎遭難のモニュメントがあり、くしくも前出の「幾松」(桂小五郎が奥さんにかくまわれた料亭)の前だったりすることからも、高級料亭で密談という歴史は幕末から始まったのではないでしょうか。
田舎侍が都に出てきたら、お茶屋で一席持ちたいと思う気持ちはとてもよく理解できるのですが……(わたしも、手を挙げています!)
上の写真は、市役所前の御池通の噴水です。
もうじき祇園祭の山鉾がここを通ります(山鉾巡行7月17日)。
一度くらいは、とも思うのですが、行きの電車から凄そうで怖い気がしています……
その前夜祭となる「宵山(よいやま)」の方が、気分的には盛り上がっているようです。
3日前を「宵々々山」と言うそうで、クリスマスの「イブイブ」よりも気の早い京都の人は、やっぱり日本人気質のルーツなのかも知れません。
三条通を渡り一本目の路地(右側)にある酢屋というお店で、ここは海援隊屯所となっていた場所で「龍馬寓居之跡」の石碑も立っています。
観光客と思われる年配の方々は(3組ほど)、何の関心も示さず通り過ぎて行くので「そういうのは、もういいや」とかいう心境なのかと考えてもみましたが、まあ単に興味が無かったのだろうということに……
確かにここは京都一の繁華街で、芸妓さんが集まる歌舞練場があったりしますし、話題に事欠かない場所柄ですから。
右下は土佐藩邸跡に建つ小学校ですが、現在は使用されていないようです。
門前の橋も含めてとてもいい雰囲気を出しているので、史跡にしようとしているのかも知れませんが現在は近寄れません。
この1本先の路地を右に入ったところに「新福菜館」という中華料理やがあって、そこのラーメンのスープがすごく濃い目の醤油味で、こちらに来て醤油味を欲していた舌にとてもマッチして、クセになっています。スライスと言っていいほど薄切りの焼豚が結構入っていて、満腹感得られます。
京都で何食ってるんだか? なんて言われそうですが、一人で入れる店ってそんなもんだって……
四条通を越えると、急に賑わいがなくなり風俗店がしばらく目立つのですが、(写真はありませんが)また料亭が軒を並べはじめます。
印象からすると、こちらのお店の方が落ち着いていて、通好みというかお忍び向けなのかもしれません。
涉成園(Map)
五条通を越えて、先日行けなかった東本願寺の別邸「涉成園」(しょうせいえん)に立ち寄りました。
徳川家光に土地を寄進してもらった東本願寺の上人さんが隠居所としたのが始まりだそうです。
門を入った正面で迎えてくれる石垣です。何を表現したいのかは不明でしたが、受けたインパクトはとてもいい印象だったと言えます。
幾度も火災に遭い、建て直されてきたそうですが、現存の建物を建築した人のセンスでしょうか、心休まる空間を質素に演出していて、銀閣に通じる「安らぎ」に包まれるような空気を提供してくれます。
どの建物も外観は立派なのですが、使われている柱はみな必要最低限の太さしかないのでは、と思えるような細身の木材が使われています。
東本願寺という本山の寺が示さねばならない威厳と、実際の心のあり方の両面を対比させる意図とすればそれは成功しているのではないかと思われます。ですが、明治天皇の休息所に使われていたといいますから、一般に公開されてから日は浅いという気がします。
上は「傍花閣」という建物で、2階に上がって花見をするためのものと思われます。そんなバカバカしいものをと思う反面、自分の庭に池と花とそんな建物があったらと、思わされるところがまさしく術中です……
高瀬川(五条〜七条)(Map)
涉成園から高瀬川に戻ると、そこには楽園が待っていました。五条にも花街があり、置屋やお茶屋が高瀬川沿いに並んでいます(そりゃ楽園だ)。
ここにも五条楽園と言う歌舞練場があるそうです(未見)。
五条大橋のたもと辺りで「人型流し」の準備をしていました。
市比賣神社(いちひめ)の水無月祭だそうで、水面に灯ろうを立て下流には網が張られていたので、この川に人型を流すようです。
今回は市比賣神社と、人型流しを別モノとして見ていたので、そのつながりを認識していませんでした(勉強せんと!)。
次回は、時間を調べて流すところを見に来たいと思います。
五条大橋と七条大橋の間に正面橋があります。
この正面とは、先日の京都国立博物館近くの秀吉を祀る豊国神社にあった大仏殿の正面に当たるので呼ばれるようになったそうです。
家康によって秀吉の痕跡は消し去られましたが、通りの名前は残されています。ちなみに大仏は、落雷で焼失したそうです。
四条から七条の川沿いには、外人向けの安宿が点在しています。今どき、日本人観光客は泊まらんだろうと思われる宿を外人向けに提供しているようです。観光には便利な場所ですから、利用者も多いかも知れません。
こんな橋がありました。渡れるとは思いますが、落ちたらどうするのかしら……
高瀬川(七条〜八条)──崇神(すうじん)(Map)
京都を歩き始めた頃、暗くなった時分に京阪七条駅からJR京都駅まで歩いたことがあって「京都駅近くなのにゴーストタウンみたいだ」と感じたことがありました(写真の中央奥が京都タワー)。その時は「再開発で買収済みの土地をフェンスで囲ってある」と思っており、工事が始まる前に写真を撮りに来ようなどと考えていました。
その後何かを調べている時、その地が被差別地域であることを知りました。
関東出身の自分はこれまで、実体験として接して無かったこともあり「行ってみなきゃ分からない」という好奇の面が強くあったのも事実です。
客観的にみれば、自治体主導による再開発事業の準備が進んでいると見受けられるのですが、まなびセンター(子どもたちが集まるような施設)前にある「負けてたまるか」の石碑を見て、全身に痛みが走り何も言葉が出ませんでした……
どういうことだろうと思いながらも、歩くうちに理解できてくる「自治体(世間)の隔離意識」と「世間から公然と差別を受けている人たち」を隔てる大きな壁があのフェンスなのだと思えました(あれ、自治体の管理と思われます)。
わたしはまだ、そんな意識・歴史をきちんと理解できないでいるのですが、現代的な都市再生の基本に従い(?)、周囲の七条通(大通り)沿いから再開発が始まっています(東京だったらおそらく「お金」でゴリ押しして強引に「さら地」にしてしまうのだろうと思ったりしました)。でもそんなことでは、解決にならない問題だと思います。
わたしには、あのフェンスがベルリンやエルサレムの壁のように思えましたし、そのようなものが日本にあることに驚きましたが、でも、京都ならあり得るとも思えました。
良くも悪くも「島国根性」が強く残る土地がらゆえ、「差別の意識」(自尊心の強さ?)が最後まで生き残るのもこの地なのかも知れない、と感じたのだと思います。
だからこそ「中に入り込めれば、もう出たくないほど心地よい『ムラ』なのだろう」という第一印象や、「自負の強い」街から受けるインパクトが脳裏から離れないのかも知れません。
しかしそれが、京都のいい面であり、良くない面であると思うし、それは日本人全体の問題であり、自分自身への問いかけであると認識しているつもりですが、人を納得させられる答えを出せるかの自信はありません。
下の写真は「ひかり公園」と表記された場所です。
行くまでは、単なる新幹線が見える公園だろうと思っていましたが、お上の命名なのか、住民の希望なのか……
何で、そんなせんさくをしなければならないのでしょうか?
2007/06/30
2007/06/16
華に集まるは人なり──三室戸寺、万福寺
2007.06.16
【京都府】
三室戸寺(Map)
遅れていても梅雨は来ました。今年もとりあえず来るものがきてひと安心って、変でしょうか?
近ごろ気候の様子がどうもおかしいと感じている方が多いと思われますが、それは極端な気候変動・気象現象がとても多く感じられるからだと思います。
梅雨の季節というのは、寒い北からの空気と、暖かい南からの空気がちょうど日本列島の上でせめぎ合うバランスから生じる雨期な訳ですから、極端な気候変動が慢性化すれば初夏の梅雨や、秋の菜種梅雨という季節感が失われていくかも知れない、と思ったりします。
四国では水不足が伝えられていますが、近ごろのパターンとしては「ドバーッ」と被害が出るような大雨が降って一件落着のような幕引きが多いように思います。
長い歴史から見れば、そんな困難をため池を作るなどして乗り越えてきたわけですから、順応はできると言えるかも知れませんが、近ごろの極端な気象現象は担当の役所が想定する「100年に一度の災害」が毎年来ているのではないかと思ってしまうのですが、いかが思われます?
前置きが長くなりましたが、梅雨の季節でも苦にならない散歩道として、「あじさい観賞」を企画したのですが、どピーカンの晴天で汗だくで歩きました。
「京都 あじさい」で検索して一番に出てくるのがここ三室戸寺です。
京都市内から南に離れ、京阪宇治線(おけいはん、初夏編はじまってます)の終点宇治の一つ手前の駅になります。
あじさいが10,000本と言いますから、京都のあじさい寺と言っていいと思います。鎌倉のあじさい寺、明月院とは趣が違って広さを感じさせる開放感があります。
ここは、西国観音霊場10番札所の巡礼所であり、バス巡礼でお年寄りも多く訪れていました(新潟方面からの様子)。
添乗員が「ここが最後尾でーす」と合図してるのを聞いて急ぎだしたおじいさんに「だいじょうぶだよ、置いてかれやしないから」と落ち着き払ったおばあさんですが「わたしゃ、ここで置いてかれたら○○(都市名)の甥っこのところへ行くから、だいじょうぶだ」とのこと。
最初は、常にそんな心配をしながら巡礼をしているのかと思ったのですが、そんなハプニングもバスで移動する以上に有意義な巡礼になるのではないか、と勝手に思ったりしました。
看板に「花の寺」とありましたが、ツツジ、シャクナゲ、アジサイ、ハスが売りのようで、特にツツジが多く(もう季節は終わっています)、時季に来たらすごそうです。
また、鉢で栽培されているハスも数多くあり、もう少ししたら絵になるのだろうという風情でした。
背後に山を背負っており川もあるのですが、水利はそれほどよくなさそうで、ハスも鉢植えでしたし池も観賞用という印象でした(アジサイへの水やりが大変そうだと、どこかで目にしました)。
ここに、鎌倉の明月院のような菖蒲池(季節限定の公開で大好きな庭です!)を作ってくれたら最高、と思うのですが「ここは植物園じゃない!」と怒られそうですし、相いれない理由があるのかも知れませんしね……
人は確かに多かったですがとても楽しめたお寺で、むしろ敵は暑さだったと言えます。
万福寺(Map)
こちらに来る前に、同志社大学出身者に「紅葉が贅沢に楽しめる万福寺」と聞いたと思っていたのですが、どうも間違って覚えていたようです。
間違っていても行ってみなきゃと思いこんでいたのは、結果としてよかったと思えました。
写真の門にいきなり「おや? 随分とテイストが違うなぁ」と思わされたら、ここは中国から招かれたの隠元禅師によって建立されたお寺なのだそうです。
お察しの通り、インゲン豆は中南米産のものが、ヨーロッパ〜中国経由で隠元禅師により伝わり、その名で呼ばれているそうです。
本当、勉強になりますよね。わたし、もう忘れないと思いますもの。
気に入ったのは、人の少なさや、静かさもかなり大きな要因ですが、後から考えれば禅寺であったことがわたしを引きつけたのだろうと、納得しています(本当に事前勉強しないやっちゃ。でも、復習はこのblogを書くために必ずしています)。
日本の禅宗は、明治の宗教政策により曹洞宗と臨済宗の二つと定められたそうなのですが、その二つの宗派は日本的にアレンジされて広まっていたため、中国から伝わったこの寺の宗派とは異なっており、後に黄檗(おうばく)宗として認められたそうです(中国の黄檗山がルーツだそう)。
とても立派な伽藍で、おそらく創建当時のままの形で残されているのではないかと思われます。
一部の建造物が修復中で、その費用に十数億円(?)かかるとのこと。
昔も今も寺の建立には莫大なお金が掛かること、それを成し遂げるためには相当な営業力が必要なこと、そして多くの信者の人たちの協力なくしてはなし得ない大事業であること、よく理解できました。
大きな駐車場があることから、法要などには大勢の方が訪れることが想像されます。
逆に、その人の流れが電車から車に変わったからでしょうか、駅前からの屋根付きの商店街は昼間から真っ暗なほどに寂れてしまっています(駅名はJRも京阪も黄檗です)。
あれは何ともならないのだろうなぁ、としか思えないのが残念です……
【京都府】
三室戸寺(Map)
遅れていても梅雨は来ました。今年もとりあえず来るものがきてひと安心って、変でしょうか?
近ごろ気候の様子がどうもおかしいと感じている方が多いと思われますが、それは極端な気候変動・気象現象がとても多く感じられるからだと思います。
梅雨の季節というのは、寒い北からの空気と、暖かい南からの空気がちょうど日本列島の上でせめぎ合うバランスから生じる雨期な訳ですから、極端な気候変動が慢性化すれば初夏の梅雨や、秋の菜種梅雨という季節感が失われていくかも知れない、と思ったりします。
四国では水不足が伝えられていますが、近ごろのパターンとしては「ドバーッ」と被害が出るような大雨が降って一件落着のような幕引きが多いように思います。
長い歴史から見れば、そんな困難をため池を作るなどして乗り越えてきたわけですから、順応はできると言えるかも知れませんが、近ごろの極端な気象現象は担当の役所が想定する「100年に一度の災害」が毎年来ているのではないかと思ってしまうのですが、いかが思われます?
前置きが長くなりましたが、梅雨の季節でも苦にならない散歩道として、「あじさい観賞」を企画したのですが、どピーカンの晴天で汗だくで歩きました。
「京都 あじさい」で検索して一番に出てくるのがここ三室戸寺です。
京都市内から南に離れ、京阪宇治線(おけいはん、初夏編はじまってます)の終点宇治の一つ手前の駅になります。
あじさいが10,000本と言いますから、京都のあじさい寺と言っていいと思います。鎌倉のあじさい寺、明月院とは趣が違って広さを感じさせる開放感があります。
ここは、西国観音霊場10番札所の巡礼所であり、バス巡礼でお年寄りも多く訪れていました(新潟方面からの様子)。
添乗員が「ここが最後尾でーす」と合図してるのを聞いて急ぎだしたおじいさんに「だいじょうぶだよ、置いてかれやしないから」と落ち着き払ったおばあさんですが「わたしゃ、ここで置いてかれたら○○(都市名)の甥っこのところへ行くから、だいじょうぶだ」とのこと。
最初は、常にそんな心配をしながら巡礼をしているのかと思ったのですが、そんなハプニングもバスで移動する以上に有意義な巡礼になるのではないか、と勝手に思ったりしました。
看板に「花の寺」とありましたが、ツツジ、シャクナゲ、アジサイ、ハスが売りのようで、特にツツジが多く(もう季節は終わっています)、時季に来たらすごそうです。
また、鉢で栽培されているハスも数多くあり、もう少ししたら絵になるのだろうという風情でした。
背後に山を背負っており川もあるのですが、水利はそれほどよくなさそうで、ハスも鉢植えでしたし池も観賞用という印象でした(アジサイへの水やりが大変そうだと、どこかで目にしました)。
ここに、鎌倉の明月院のような菖蒲池(季節限定の公開で大好きな庭です!)を作ってくれたら最高、と思うのですが「ここは植物園じゃない!」と怒られそうですし、相いれない理由があるのかも知れませんしね……
人は確かに多かったですがとても楽しめたお寺で、むしろ敵は暑さだったと言えます。
万福寺(Map)
こちらに来る前に、同志社大学出身者に「紅葉が贅沢に楽しめる万福寺」と聞いたと思っていたのですが、どうも間違って覚えていたようです。
間違っていても行ってみなきゃと思いこんでいたのは、結果としてよかったと思えました。
写真の門にいきなり「おや? 随分とテイストが違うなぁ」と思わされたら、ここは中国から招かれたの隠元禅師によって建立されたお寺なのだそうです。
お察しの通り、インゲン豆は中南米産のものが、ヨーロッパ〜中国経由で隠元禅師により伝わり、その名で呼ばれているそうです。
本当、勉強になりますよね。わたし、もう忘れないと思いますもの。
気に入ったのは、人の少なさや、静かさもかなり大きな要因ですが、後から考えれば禅寺であったことがわたしを引きつけたのだろうと、納得しています(本当に事前勉強しないやっちゃ。でも、復習はこのblogを書くために必ずしています)。
日本の禅宗は、明治の宗教政策により曹洞宗と臨済宗の二つと定められたそうなのですが、その二つの宗派は日本的にアレンジされて広まっていたため、中国から伝わったこの寺の宗派とは異なっており、後に黄檗(おうばく)宗として認められたそうです(中国の黄檗山がルーツだそう)。
とても立派な伽藍で、おそらく創建当時のままの形で残されているのではないかと思われます。
一部の建造物が修復中で、その費用に十数億円(?)かかるとのこと。
昔も今も寺の建立には莫大なお金が掛かること、それを成し遂げるためには相当な営業力が必要なこと、そして多くの信者の人たちの協力なくしてはなし得ない大事業であること、よく理解できました。
大きな駐車場があることから、法要などには大勢の方が訪れることが想像されます。
逆に、その人の流れが電車から車に変わったからでしょうか、駅前からの屋根付きの商店街は昼間から真っ暗なほどに寂れてしまっています(駅名はJRも京阪も黄檗です)。
あれは何ともならないのだろうなぁ、としか思えないのが残念です……
2007/06/09
包み込まれて浮遊したい!?
──三十三間堂、智積院
2007.06.09
【京都府】
豊国廟(ほうこくびょう)(Map)
秀吉の墓です。
標高196mの阿弥陀ヶ峰の山頂にあります。
家康に墓をあばかれ、遺体を掘り起こされ燃やされて遺灰を捨てられた、などとの言い伝えも耳にします。
そこまでやってようやく、江戸幕府300年の安寧を手にできたと言いたいのでしょうが、どうも近ごろの民族紛争を想起してしまいます。
相手を根絶やしにしするまで戦いが続くなら、それができない相手同士は子孫が続く限り「それが宿命」とでも叫びながらいがみ合うことになってしまいます。
それでは、人間はみな戦う宿命に生まれてきた、と言われているようでとても気に食いません。
一同が京都に集まって、お茶会でもして頭を冷やせたらとも思うのですが、この土地にもとても冷たい一面があるので何とも言えません。そんな話しはまた後日にでも。
多少、見晴らしがきくかと思っていたら、この季節は若葉が茂っていて見通しがありませんでした。ゼイゼイ……
もうほとんど、登るのやめて下から写真撮って終わりにしようと思っていたのですが、ちょうどその階段で高校の野球部がトレーニングしており「こんにちは、ここキツイっすよ!」と声を掛けられ「ガンバレー!」なんて言っちゃった手前、引き下がれなくなって登らされてしました。
右上の写真を撮った場所は頂上目前で、ここまでにはこの4倍もの階段があります(リンク地図の左から「豊国廟」をクリックして拡大表示して見てください)。
下りは結構急な階段で、踏ん張りが効かず緊張していたのか、足元を確かめる目に力が入るようで、こめかみあたりが痛くなってきました。
高校生と張り合ってどうするの? でもこれって、反省しても直らないんだよねぇ、何せ「衝動」ですから。
痛い目に遭う(悟る)までの愚かな修行ということにさせてください……
565段?(金比羅さんの舞台までは785段とのこと。でも、途中に息つくところもあったし)それを直登だものバテるわけだよ……
階段を下ると、京都女子大学(付属中・高校)があり、女子高生の中を汗だくで足取りがヘロヘロのおっさんが歩いていれば、変な目で見られていると思いつつも、足がシャキッとしないのです……
妙法院門跡(Map)
板葺きの屋根を撮りましたが、何だか分かりませんね。
内部は公開されておらず、外観だけです。
三十三間堂(蓮華王院)は、ここ妙法院の管理下に置かれているそうです。
そんな印象しかなくてスミマセン。まだ、汗をふきふきだったもので……
案の定、ふくらはぎが痛くなったのは月曜日でした(行ったのは土曜日)。
智積院(ちしゃくいん)(Map)
手入れが行き届いて整然としている東山風のお寺は久しぶりで、また結構贅沢だったりするんだろうと、さっさと出てこようと思っていました。
ところがどっこい、襖絵がまことに見事でした。
とても力強い線と写実力ゆえ、背景を金箔にすることでやっと調和が取れるとでも言うのか、見事に全体から均質な光が放たれているように思えました。
庭園も見事で、面する部屋にその襖絵が配されていたとのことで(実物は収蔵庫ですが、部屋には実に安っぽい模写が配されている)、庭園に面した部屋に実物の襖絵が配されていたら、一日中動けないのではないか、とすら思えました。
今まで美術品に対して何の反応も示してこなかった奴が何で急にテンションが上がっているんだ? と思われるでしょうし、自分でも思いますが、「ここは実物(本物)なんです!」。
わたしは「違いの分かる男」(これもえらく古い!)と言うつもりはありませんが、レプリカだけを飾っているお寺などとは全然違いますって!
わたしは何でも、初物に接する時にはできるだけ解説に接しないようにして、出会った時の印象を楽しみたいと思っているのですが、この絵と対峙(たいじ)した時は、本当に興奮しました!
長谷川等伯(作者)の名も知りませんし、この寺にそんな国宝の襖絵が展示されているなどということも知りませんでした。
──ほらまた出た。勉強しますとか言っておきながら何もしてないじゃん……
加えて、ここが関東の成田山(新勝寺)、川崎大師(平間寺)、高尾山(薬王院)の本山であること知りました(真言宗でも、高野山直系ではないことしか知りませんでした)。
そんな反省はもう慣れっこで何度でもしますが、有名な襖絵等を所蔵する他の寺院も、現場でなくてもいいからせめて敷地内でそれら「実物」の絵を展示しないと、総合的なイメージを作り損ねてしまい、妙にねじれた印象を拝観者に与えてしまうマイナスの面があるのではないか、と思いました。
そういう重要とされる絵は、博物館に取り上げられてしまって思うようにならないということも考えられますが、それは国の文化・教育政策として「あるべきところで見せなければ、正しく認識されない」と考えるべきなのではないだろうか。
そんなことを強く感じさせられた「国宝」の襖絵でした。
趣味の問題もあるとは思いますが、是非ともオススメです!
三十三間堂(Map)
是非とも行ってみたかったところのひとつでしたが、想像以上でした。
「堂内では静かにおまいりください」と盛んにアナウンスされ、そんなに騒がしいところなのかとちと不安になりましたが、お堂に入って端っこに立った瞬間に、立ちつくしました。
ズラーッと並ぶ並ぶ金色に輝いた観音様。一番手前の像の精緻さに目を奪われ、その素晴らしさに心奪われた次の瞬間「これと同様の像がズーッと並んでいるのか」と、声にならない感動を心の中でつぶやいていました。
中央の中尊(巨像)を挟んで、左右に各500体ある計1001体の千手観音がご本尊だそうです(見れば納得)。
その手前にも28体の仏像が配されており、最初に迎えてくれる雷神像をはじめ、その個性と力強さに視線が釘付けになります。
どこを見ても決して飽きることはないし、進むにつれご本尊に包み込まれていく感覚を全身で感じられ、他では経験のない安らぎと、至福感を与えてくれます。
そんな中央の大きな中尊の前で、夜一人で寝てみたいと思いました。
その夜にはきっと王虫(オーム)の黄金の触手に持ち上げられたナウシカのように、観音様に宙に持ち上げられる夢を見られそう、などと想像したりしました(イマジネーションが乏しくてスミマセン)。
──わたくし初めて「空中浮遊」などということを思い浮かべました。観音様たちに抱かれて足が地から離れたとしたら、どんなに心地いいことだろう、と…… ボチボチ、頭の中にまで京都の毒(?)が回ってきたのかも知れません。
日本で唯一、と唱っているだけあります。
ここは、是非一度来るべきです。本当、他にはありませんから!
来て、見て、ご自分で判断されてはいかがでしょうか。
「堂内では静かにおまいりください」とは、現在は手を伸ばせば届くような場所で国宝を見られるが、何か起きたらこんな近くでは見られなくなってしまいますよ、との警告なのかも知れません。
京都国立博物館(Map)
タイムアップで、正門からの写真だけです。
三十三間堂で時間食い過ぎました。
また、何かの展示会の時にでも。
──奈良の、正倉院展みたいに大混雑かも知れませんが……
【京都府】
豊国廟(ほうこくびょう)(Map)
秀吉の墓です。
標高196mの阿弥陀ヶ峰の山頂にあります。
家康に墓をあばかれ、遺体を掘り起こされ燃やされて遺灰を捨てられた、などとの言い伝えも耳にします。
そこまでやってようやく、江戸幕府300年の安寧を手にできたと言いたいのでしょうが、どうも近ごろの民族紛争を想起してしまいます。
相手を根絶やしにしするまで戦いが続くなら、それができない相手同士は子孫が続く限り「それが宿命」とでも叫びながらいがみ合うことになってしまいます。
それでは、人間はみな戦う宿命に生まれてきた、と言われているようでとても気に食いません。
一同が京都に集まって、お茶会でもして頭を冷やせたらとも思うのですが、この土地にもとても冷たい一面があるので何とも言えません。そんな話しはまた後日にでも。
多少、見晴らしがきくかと思っていたら、この季節は若葉が茂っていて見通しがありませんでした。ゼイゼイ……
もうほとんど、登るのやめて下から写真撮って終わりにしようと思っていたのですが、ちょうどその階段で高校の野球部がトレーニングしており「こんにちは、ここキツイっすよ!」と声を掛けられ「ガンバレー!」なんて言っちゃった手前、引き下がれなくなって登らされてしました。
右上の写真を撮った場所は頂上目前で、ここまでにはこの4倍もの階段があります(リンク地図の左から「豊国廟」をクリックして拡大表示して見てください)。
下りは結構急な階段で、踏ん張りが効かず緊張していたのか、足元を確かめる目に力が入るようで、こめかみあたりが痛くなってきました。
高校生と張り合ってどうするの? でもこれって、反省しても直らないんだよねぇ、何せ「衝動」ですから。
痛い目に遭う(悟る)までの愚かな修行ということにさせてください……
565段?(金比羅さんの舞台までは785段とのこと。でも、途中に息つくところもあったし)それを直登だものバテるわけだよ……
階段を下ると、京都女子大学(付属中・高校)があり、女子高生の中を汗だくで足取りがヘロヘロのおっさんが歩いていれば、変な目で見られていると思いつつも、足がシャキッとしないのです……
妙法院門跡(Map)
板葺きの屋根を撮りましたが、何だか分かりませんね。
内部は公開されておらず、外観だけです。
三十三間堂(蓮華王院)は、ここ妙法院の管理下に置かれているそうです。
そんな印象しかなくてスミマセン。まだ、汗をふきふきだったもので……
案の定、ふくらはぎが痛くなったのは月曜日でした(行ったのは土曜日)。
智積院(ちしゃくいん)(Map)
手入れが行き届いて整然としている東山風のお寺は久しぶりで、また結構贅沢だったりするんだろうと、さっさと出てこようと思っていました。
ところがどっこい、襖絵がまことに見事でした。
とても力強い線と写実力ゆえ、背景を金箔にすることでやっと調和が取れるとでも言うのか、見事に全体から均質な光が放たれているように思えました。
庭園も見事で、面する部屋にその襖絵が配されていたとのことで(実物は収蔵庫ですが、部屋には実に安っぽい模写が配されている)、庭園に面した部屋に実物の襖絵が配されていたら、一日中動けないのではないか、とすら思えました。
今まで美術品に対して何の反応も示してこなかった奴が何で急にテンションが上がっているんだ? と思われるでしょうし、自分でも思いますが、「ここは実物(本物)なんです!」。
わたしは「違いの分かる男」(これもえらく古い!)と言うつもりはありませんが、レプリカだけを飾っているお寺などとは全然違いますって!
わたしは何でも、初物に接する時にはできるだけ解説に接しないようにして、出会った時の印象を楽しみたいと思っているのですが、この絵と対峙(たいじ)した時は、本当に興奮しました!
長谷川等伯(作者)の名も知りませんし、この寺にそんな国宝の襖絵が展示されているなどということも知りませんでした。
──ほらまた出た。勉強しますとか言っておきながら何もしてないじゃん……
加えて、ここが関東の成田山(新勝寺)、川崎大師(平間寺)、高尾山(薬王院)の本山であること知りました(真言宗でも、高野山直系ではないことしか知りませんでした)。
そんな反省はもう慣れっこで何度でもしますが、有名な襖絵等を所蔵する他の寺院も、現場でなくてもいいからせめて敷地内でそれら「実物」の絵を展示しないと、総合的なイメージを作り損ねてしまい、妙にねじれた印象を拝観者に与えてしまうマイナスの面があるのではないか、と思いました。
そういう重要とされる絵は、博物館に取り上げられてしまって思うようにならないということも考えられますが、それは国の文化・教育政策として「あるべきところで見せなければ、正しく認識されない」と考えるべきなのではないだろうか。
そんなことを強く感じさせられた「国宝」の襖絵でした。
趣味の問題もあるとは思いますが、是非ともオススメです!
三十三間堂(Map)
是非とも行ってみたかったところのひとつでしたが、想像以上でした。
「堂内では静かにおまいりください」と盛んにアナウンスされ、そんなに騒がしいところなのかとちと不安になりましたが、お堂に入って端っこに立った瞬間に、立ちつくしました。
ズラーッと並ぶ並ぶ金色に輝いた観音様。一番手前の像の精緻さに目を奪われ、その素晴らしさに心奪われた次の瞬間「これと同様の像がズーッと並んでいるのか」と、声にならない感動を心の中でつぶやいていました。
中央の中尊(巨像)を挟んで、左右に各500体ある計1001体の千手観音がご本尊だそうです(見れば納得)。
その手前にも28体の仏像が配されており、最初に迎えてくれる雷神像をはじめ、その個性と力強さに視線が釘付けになります。
どこを見ても決して飽きることはないし、進むにつれご本尊に包み込まれていく感覚を全身で感じられ、他では経験のない安らぎと、至福感を与えてくれます。
そんな中央の大きな中尊の前で、夜一人で寝てみたいと思いました。
その夜にはきっと王虫(オーム)の黄金の触手に持ち上げられたナウシカのように、観音様に宙に持ち上げられる夢を見られそう、などと想像したりしました(イマジネーションが乏しくてスミマセン)。
──わたくし初めて「空中浮遊」などということを思い浮かべました。観音様たちに抱かれて足が地から離れたとしたら、どんなに心地いいことだろう、と…… ボチボチ、頭の中にまで京都の毒(?)が回ってきたのかも知れません。
日本で唯一、と唱っているだけあります。
ここは、是非一度来るべきです。本当、他にはありませんから!
来て、見て、ご自分で判断されてはいかがでしょうか。
「堂内では静かにおまいりください」とは、現在は手を伸ばせば届くような場所で国宝を見られるが、何か起きたらこんな近くでは見られなくなってしまいますよ、との警告なのかも知れません。
京都国立博物館(Map)
タイムアップで、正門からの写真だけです。
三十三間堂で時間食い過ぎました。
また、何かの展示会の時にでも。
──奈良の、正倉院展みたいに大混雑かも知れませんが……
2007/06/02
誠ということば──壬生界隈、西・東本願寺
2007.06.02
【京都府】
光縁寺(Map)
最初に断っておかなければならないのは、わたしは新撰組ファンではないということです。
幕末に対する見解においては、革命推進派への思い入れが強いので、新撰組は敵に含まれます。まあ、目くじらを立てることではありませんが、本もテレビも見てないので知識はほとんどゼロです(映画の『御法度』は観ましたが、役に立ちませんわね)。
ここは隊士たちの墓があることで有名になり「沖田の墓は何でないんだ?」の問い合わせに窮した住職が、自分で沖田の墓を作ったとの逸話があるそうです。
そうでもしないと納得しないファンの心を静めてくれた、心温まるお話しです。
でも、過去の偉人たちを供養しようと建てられ今に伝わるものはたくさんありますから(義経に関するものなど数えられないのではないか?)、これも方便と仏様もおとがめにはならないでしょう。
八木邸(Map)
新撰組の壬生屯所として一般公開されています。近くの前川邸(新撰組とは関係ないが昔の町中の写真が展示してあり、嵐山の渡月橋の素朴さに見入ってしまいました。室内未公開)など、いくつもの家に分宿していたようです。
八木邸では芹沢鴨がつまずいた文机や、かもいの刀傷などの伝説と身近に接することができますが、入館料1,000円です。
説明員の方が解説してくれるのですが、再訪らしいおっちゃんが「これが刀傷や、ずいぶんすり減ったなあ」と「触らないでください」の注意書きのある傷跡をなでなでしてるのを、説明員がやんわり注意すると「○○(場所名)にある鉄砲玉の跡もツルツルやったで」と、手振り(指をグリグリ)をまじえて解説してました……
減るモンなんですから、お客さん! お触りは禁止です。
壬生寺(Map)
新撰組の訓練場だったとのこと。昔はもっと広かったのかも知れませんが、ここで大砲を撃ったなど現在では想像できません。
境内の一角に、新撰組コーナー的な庭があり、石碑や銅像(近藤勇)などが狭い場所に並べられています。壬生寺のホームページには「京都における新選組に関する資料は極めて少ない」ともあり、あまり好感を持たれていなかったのではないか? という印象を受けました。今では、そのおかげで人が集まって来ているのに、とも思うのですが……
以前、節分の晩に偶然通りがかり、ものすごい人出の中で次々と炮烙(ほうろく:素焼きのお皿)に願い事を書いて奉納していたのが、とても印象に残っていました。
その後、名前だけは耳にしたことがある「壬生狂言」(境内の狂言堂で行われる)で、奉納された炮烙を舞台から落として割ることで無病息災を祈願する様子をテレビで見ました。
なるほど、行事を連携させていくことで人の心をつなぎ止めているのかと、節分のあの賑わいのわけが分かった気がしました。
門の前でどこを撮ろうかと、キョロキョロしている時「旦那さん京都の人かい?」と、写真の自転車に乗った老人に声を掛けられました。
この方「私設解説員」らしく、新撰組とこの界隈の歴史についてあれこれ聞かせてくれました。
新撰組についてド素人のわたしは「○○(人名)を知っとるかね?」と、何人かの名前を出されても「いえ知りません……」と答えるしかなく、老人も話しがいのない奴だと思っていたことでしょう。
きっと、名物じいさんなのではないかと思いつつも、新撰組ファンの方はこの方が元気なうちに壬生寺へ出かけられることをオススメします。ちなみに、訪れたのは土曜日です。
上の写真にも写っているし、付近を結構チョロチョロしています。イエイエ、決して悪口などではありませんよ……
島原(Map)
昔は、祗園よりも格の高い花街だったそうです。
上が島原大門で、花街の入口です。
右が輪違屋(わちがいや)といって、現役の太夫(花魁:おいらん)のいる置屋で、太夫道中(花魁道中をそう言うらしい)を復活させたそうなので、一度拝見してみたいと思います。
その下の角屋(すみや)は揚屋といって、太夫を呼んで宴会を開く座敷だそうです。
久坂玄瑞密議の石碑があることからも、きっと倒幕派と佐幕派が鉢合わせた花街ってのは、この辺りだったのではないでしょうか。
新撰組ド素人でも、誠の隊旗は知っている訳で、その言葉を考えながら歩いていましたが、もはや死語なのではないか? と……
彼らの誠は、幕府(主君)への忠誠心であり、武士道の根幹となるべきものであって、そこに自身の存在理由も求められるほど純粋で、ある意味美しい精神であったと思われます。
でも、今はどうなのでしょうか? 会社への忠誠心と言っても、それは契約に過ぎず(キリスト教などの神との契約とは意味が違うし)契約が切れたら(定年が来たら)一度ご破算になるわけで、それでも愛社精神を持ち続けることは大切ではあるけれど、命を賭して守るべきモノという感覚ではないと思う。
では、どこで使われるのだろう?
夫婦間で使われるのであれば納得できますが、だとすれば現代の誠は人の数だけある分求心力を持っていないわけで、それは当時の誠とは本質的に違っている、と思われます。
不要であると言うよりは、必要としていない、と言った方が近い気がします。
いざ、と言うときには「島国根性」の旗の下に一枚岩になれるとも思いますが、それでいいのだろうか? の答えは、民族・宗教紛争が絶えないこの星では、なかなか見つからないのかも知れません。
新撰組に参加した田舎の若者たちは「いざ!」という時代に参加するためのより所として「誠」なることばを祭り上げたのではないかと思います。
倒幕派の若者たちも同様に、国を挙げての祭りに参加するため「錦の御旗」が必要だったのだと思います。
しかし、転がりだした現実は旗印をはるかに超えてしまい、収拾がつかなくなってしまったわけで、その後の戦争のような「玉砕」を覚悟した内乱を避けるために、誠(故郷への心)を守ることで殉死したと言える西郷隆盛(と理解していますが、違っていたら指摘してください)を最後に、その言葉の意味する概念は消え去ったのではないでしょうか?
その後の戦争は明らかな侵略であり、切ないほどの履き違えを強いられていたわけで、その時代の「誠」ということばはすっかり色あせていたのではないかと思われます。
大切なのは(血を流すことが必要かは別にして)、みんなが真剣に国の行く末を考えたということなのではないでしょうか。
だからこそこの時代においても、立場を越えて往時を偲ぶ人が絶えないのだと思っています。
西本願寺(Map)
現在本願寺(西・東)は平成の大修復作業中で、工事中の壁や柵に囲まれ中をうかがえません。
──上の写真は、門前を横切る堀川通を挟んだ場所にある外門に続く門前の通りから西本願寺の工事中の壁をのぞんでいます。
しかしそれにしても、どちらもデカイ!
それは、信仰の対象としての「大本山」のありがたみというよりは力の誇示に見えてしまうほど、広い土地と大きな建造物からの威圧感に圧倒されてしまいます。
──知恩院(浄土宗総本山)もデカイと感じましたが、まだ象徴的な存在と感じられました。
日本で最も信者が多いとされる浄土真宗であったとしても、西は秀吉、東と知恩院は家康の庇護を受け発展したそうなので、どちらも本質的な教義の優劣で勢力を伸ばしたとは思えない点では同じではないかと感じてしまいました(こんなこと書いたら怒られそう……)。
信者が増え、宗派に属する寺が全国に数多く存在する総本山とすれば、それらを束ね導き、後継者の育成そして管理までせねばならないわけで、大きくなければやりきれないというのも現実、とも理解できますが……
※ここで、フォローの豆知識。
浄土真宗は通称「一向宗」「門徒宗」と呼ばれます。そうです、日本史で耳にしたことのある「一向一揆」の張本人です。それじゃ、フォローになってない?
でも「浄土真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない」ことをわたしも初めて知り、ひとつ偏見が取り払われたということで……
太鼓楼(Map)
西本願寺の太鼓楼近くに移った新撰組ですが、太鼓楼にまつわる記録にも良く書かれたものはないらしく、結局不動堂村へ寺のお金で移転させられたようです。
どちらでも目にしたのが「豚を飼う」迷惑ということですが、当時の京都で豚を飼うなんてあり得ないことだったのだと思われます。
そうか新撰組の若者たちは、幕府の下で待遇が悪くとも「武士」としての振る舞いを認められたい一心で上京した田舎者ばかりで、都人たちにうとまれる存在だった、ということか。
──倒幕派の連中も同様にさげすまれて見られていたことでしょう。
それでも腐らずに誠を貫くことに青春を燃焼させた若者たちだった、ということなのでしょうか?
であれば、わたしも思い入れができる気がしてきました(何を今さら、ですけど……)。
東本願寺(Map)
西も東も「大本願寺」に違いない。
などと、解釈を放棄したようなこと言って申し訳ありませんが「もう十分」というのが本心です。
ですが、ここで目立つのがアジア系(韓国・中国)の観光客です(以前も、韓国の観光客に道を尋ねられた)。
あちらに友好寺院でもあるのだろうか?
「そこ、ちょっと勉強不足ですねぇ」と突かれたらグゥの音も出ない……
何か、もう調べる意欲もなくてスミマセン。
今回は新撰組ゆかりの地ということで、ちゃんと書かないとしかられそうな気がして、リキを入れたので果てました……
本願寺の南側は七条通になり、JRの京都駅はもう目の前です(写真後方は京都タワー)。
次回からの京都行きは、阪急(四条に駅がある)ではなくJR京都からのスタートになります。
【京都府】
光縁寺(Map)
最初に断っておかなければならないのは、わたしは新撰組ファンではないということです。
幕末に対する見解においては、革命推進派への思い入れが強いので、新撰組は敵に含まれます。まあ、目くじらを立てることではありませんが、本もテレビも見てないので知識はほとんどゼロです(映画の『御法度』は観ましたが、役に立ちませんわね)。
ここは隊士たちの墓があることで有名になり「沖田の墓は何でないんだ?」の問い合わせに窮した住職が、自分で沖田の墓を作ったとの逸話があるそうです。
そうでもしないと納得しないファンの心を静めてくれた、心温まるお話しです。
でも、過去の偉人たちを供養しようと建てられ今に伝わるものはたくさんありますから(義経に関するものなど数えられないのではないか?)、これも方便と仏様もおとがめにはならないでしょう。
八木邸(Map)
新撰組の壬生屯所として一般公開されています。近くの前川邸(新撰組とは関係ないが昔の町中の写真が展示してあり、嵐山の渡月橋の素朴さに見入ってしまいました。室内未公開)など、いくつもの家に分宿していたようです。
八木邸では芹沢鴨がつまずいた文机や、かもいの刀傷などの伝説と身近に接することができますが、入館料1,000円です。
説明員の方が解説してくれるのですが、再訪らしいおっちゃんが「これが刀傷や、ずいぶんすり減ったなあ」と「触らないでください」の注意書きのある傷跡をなでなでしてるのを、説明員がやんわり注意すると「○○(場所名)にある鉄砲玉の跡もツルツルやったで」と、手振り(指をグリグリ)をまじえて解説してました……
減るモンなんですから、お客さん! お触りは禁止です。
壬生寺(Map)
新撰組の訓練場だったとのこと。昔はもっと広かったのかも知れませんが、ここで大砲を撃ったなど現在では想像できません。
境内の一角に、新撰組コーナー的な庭があり、石碑や銅像(近藤勇)などが狭い場所に並べられています。壬生寺のホームページには「京都における新選組に関する資料は極めて少ない」ともあり、あまり好感を持たれていなかったのではないか? という印象を受けました。今では、そのおかげで人が集まって来ているのに、とも思うのですが……
以前、節分の晩に偶然通りがかり、ものすごい人出の中で次々と炮烙(ほうろく:素焼きのお皿)に願い事を書いて奉納していたのが、とても印象に残っていました。
その後、名前だけは耳にしたことがある「壬生狂言」(境内の狂言堂で行われる)で、奉納された炮烙を舞台から落として割ることで無病息災を祈願する様子をテレビで見ました。
なるほど、行事を連携させていくことで人の心をつなぎ止めているのかと、節分のあの賑わいのわけが分かった気がしました。
門の前でどこを撮ろうかと、キョロキョロしている時「旦那さん京都の人かい?」と、写真の自転車に乗った老人に声を掛けられました。
この方「私設解説員」らしく、新撰組とこの界隈の歴史についてあれこれ聞かせてくれました。
新撰組についてド素人のわたしは「○○(人名)を知っとるかね?」と、何人かの名前を出されても「いえ知りません……」と答えるしかなく、老人も話しがいのない奴だと思っていたことでしょう。
きっと、名物じいさんなのではないかと思いつつも、新撰組ファンの方はこの方が元気なうちに壬生寺へ出かけられることをオススメします。ちなみに、訪れたのは土曜日です。
上の写真にも写っているし、付近を結構チョロチョロしています。イエイエ、決して悪口などではありませんよ……
島原(Map)
昔は、祗園よりも格の高い花街だったそうです。
上が島原大門で、花街の入口です。
右が輪違屋(わちがいや)といって、現役の太夫(花魁:おいらん)のいる置屋で、太夫道中(花魁道中をそう言うらしい)を復活させたそうなので、一度拝見してみたいと思います。
その下の角屋(すみや)は揚屋といって、太夫を呼んで宴会を開く座敷だそうです。
久坂玄瑞密議の石碑があることからも、きっと倒幕派と佐幕派が鉢合わせた花街ってのは、この辺りだったのではないでしょうか。
新撰組ド素人でも、誠の隊旗は知っている訳で、その言葉を考えながら歩いていましたが、もはや死語なのではないか? と……
彼らの誠は、幕府(主君)への忠誠心であり、武士道の根幹となるべきものであって、そこに自身の存在理由も求められるほど純粋で、ある意味美しい精神であったと思われます。
でも、今はどうなのでしょうか? 会社への忠誠心と言っても、それは契約に過ぎず(キリスト教などの神との契約とは意味が違うし)契約が切れたら(定年が来たら)一度ご破算になるわけで、それでも愛社精神を持ち続けることは大切ではあるけれど、命を賭して守るべきモノという感覚ではないと思う。
では、どこで使われるのだろう?
夫婦間で使われるのであれば納得できますが、だとすれば現代の誠は人の数だけある分求心力を持っていないわけで、それは当時の誠とは本質的に違っている、と思われます。
不要であると言うよりは、必要としていない、と言った方が近い気がします。
いざ、と言うときには「島国根性」の旗の下に一枚岩になれるとも思いますが、それでいいのだろうか? の答えは、民族・宗教紛争が絶えないこの星では、なかなか見つからないのかも知れません。
新撰組に参加した田舎の若者たちは「いざ!」という時代に参加するためのより所として「誠」なることばを祭り上げたのではないかと思います。
倒幕派の若者たちも同様に、国を挙げての祭りに参加するため「錦の御旗」が必要だったのだと思います。
しかし、転がりだした現実は旗印をはるかに超えてしまい、収拾がつかなくなってしまったわけで、その後の戦争のような「玉砕」を覚悟した内乱を避けるために、誠(故郷への心)を守ることで殉死したと言える西郷隆盛(と理解していますが、違っていたら指摘してください)を最後に、その言葉の意味する概念は消え去ったのではないでしょうか?
その後の戦争は明らかな侵略であり、切ないほどの履き違えを強いられていたわけで、その時代の「誠」ということばはすっかり色あせていたのではないかと思われます。
大切なのは(血を流すことが必要かは別にして)、みんなが真剣に国の行く末を考えたということなのではないでしょうか。
だからこそこの時代においても、立場を越えて往時を偲ぶ人が絶えないのだと思っています。
西本願寺(Map)
現在本願寺(西・東)は平成の大修復作業中で、工事中の壁や柵に囲まれ中をうかがえません。
──上の写真は、門前を横切る堀川通を挟んだ場所にある外門に続く門前の通りから西本願寺の工事中の壁をのぞんでいます。
しかしそれにしても、どちらもデカイ!
それは、信仰の対象としての「大本山」のありがたみというよりは力の誇示に見えてしまうほど、広い土地と大きな建造物からの威圧感に圧倒されてしまいます。
──知恩院(浄土宗総本山)もデカイと感じましたが、まだ象徴的な存在と感じられました。
日本で最も信者が多いとされる浄土真宗であったとしても、西は秀吉、東と知恩院は家康の庇護を受け発展したそうなので、どちらも本質的な教義の優劣で勢力を伸ばしたとは思えない点では同じではないかと感じてしまいました(こんなこと書いたら怒られそう……)。
信者が増え、宗派に属する寺が全国に数多く存在する総本山とすれば、それらを束ね導き、後継者の育成そして管理までせねばならないわけで、大きくなければやりきれないというのも現実、とも理解できますが……
※ここで、フォローの豆知識。
浄土真宗は通称「一向宗」「門徒宗」と呼ばれます。そうです、日本史で耳にしたことのある「一向一揆」の張本人です。それじゃ、フォローになってない?
でも「浄土真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない」ことをわたしも初めて知り、ひとつ偏見が取り払われたということで……
太鼓楼(Map)
西本願寺の太鼓楼近くに移った新撰組ですが、太鼓楼にまつわる記録にも良く書かれたものはないらしく、結局不動堂村へ寺のお金で移転させられたようです。
どちらでも目にしたのが「豚を飼う」迷惑ということですが、当時の京都で豚を飼うなんてあり得ないことだったのだと思われます。
そうか新撰組の若者たちは、幕府の下で待遇が悪くとも「武士」としての振る舞いを認められたい一心で上京した田舎者ばかりで、都人たちにうとまれる存在だった、ということか。
──倒幕派の連中も同様にさげすまれて見られていたことでしょう。
それでも腐らずに誠を貫くことに青春を燃焼させた若者たちだった、ということなのでしょうか?
であれば、わたしも思い入れができる気がしてきました(何を今さら、ですけど……)。
東本願寺(Map)
西も東も「大本願寺」に違いない。
などと、解釈を放棄したようなこと言って申し訳ありませんが「もう十分」というのが本心です。
ですが、ここで目立つのがアジア系(韓国・中国)の観光客です(以前も、韓国の観光客に道を尋ねられた)。
あちらに友好寺院でもあるのだろうか?
「そこ、ちょっと勉強不足ですねぇ」と突かれたらグゥの音も出ない……
何か、もう調べる意欲もなくてスミマセン。
今回は新撰組ゆかりの地ということで、ちゃんと書かないとしかられそうな気がして、リキを入れたので果てました……
本願寺の南側は七条通になり、JRの京都駅はもう目の前です(写真後方は京都タワー)。
次回からの京都行きは、阪急(四条に駅がある)ではなくJR京都からのスタートになります。
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