2007/12/16

笑顔になれる!
  ──清滝、愛宕念仏寺、鳥居本、祇王寺

2007.12.15
【京都府】


 本日は、先週横目で見ていた嵐山からの出発です。(上写真渡月橋より)
 紅葉も終わりひと息ついたようで、電車も座れ「まあ、許せるかな」程度になりました。
 しかーし! 先週もふれた夜間ライトアップの「京都・嵐山花灯路」の人気はものすごく、帰りの反対側の電車はかなり混雑していました。まるで、花火大会に向かう人の波のよう。
 さすが京都の西の横綱(東はもちろん清水寺)、恐れ入りました……


 清滝(Map)

 本日歩く奧嵯峨は、旧街道に沿って古い町並みが残る地域なのですが、そこから峠を越えた川沿いにひっそりとたたずんでいるのがこの清滝集落です。
 そんなのどかな理由は、車の通れる道が奧嵯峨方面(トンネルと峠道)だけの閉ざされた地区である、と言えば伝わると思います。
 そんな峠道を(バスはトンネルを通ります)野球部が駆け降りてきます。
 両手に500ミリのペットボトルに水を入れたものを握り、すれ違いざまにあいさつの声を掛けながら走っていきます。
 「若さって何?」
 もう自分の身に置き換えて理解することもできない「アンビリーバブルな季節」と縮こまっておりました……

 清滝に通じるトンネルは昔、軌道が通っていて(1車線の狭い幅しかない)この集落からはケーブルカーも出ていて、山頂の愛宕(あたご)神社詣で客や、スキー場もあったらしく結構賑わっていたようです。
 そんな名残でしょうか、廃墟となった旅館が残されています。現役の旅館も一軒あります。
 上流は神護寺などのある高雄で、下流は保津峡下りの保津川を経て嵐山に至る場所柄、ハイキングロードが整備されておりハイカーもまま出ていたので、そんな人たちが利用しているのかも知れません。
 ──帰ってからTV「美の京都遺産」(日曜の早朝放映を録画してます)を見ると、愛宕神社詣では今でも参拝者は多いそうです。



 愛宕(おたぎ)念仏寺(Map)


 「ここ、好っきやねん!」(間違ってない?)
 前回訪れた時「笑顔になろう!」で紹介した、ここで一番端正な顔立ちをしていると思う彼(右写真)ですが、頭頂だけ苔のヘアがはげてしまいました……
 石像ですから、何かの拍子にツルッといってしまったようです。
 これも年月のなせる技と言えましょうが、また生えてくるまで何年かかるのだろうか?
 でも、また生えてくるという希望があるからいいのかも?

 上写真前列真ん中の、めがねをかけている石仏が持っているのがウォークマン(と思われる)でヘッドフォンもかけています。


 とても厳しそうな表情のようにも見えますが、落ち葉をお湯に置き換えてみると、湯船で気持ちよさにうなっているように見えてきませんか?(右写真)













 この石仏(右写真)はどこかで広告に使われていた気がするのと、この花は寺側の演出と思われたので前回は無視していたのですが「宣伝してやろうか」(大した効果はありませんが)と、撮ってきました。
 わたしの趣味としては、飾ることなく、さりげなく存在していてくれたほうが好きなのですが……










 こうやって横から眺めると「モアイ像」に似ている気もしてきますが、どちらも思いが込められている故に、愛されるのではないでしょうか。
 京都で笑顔になりたい方は是非どうぞ!


 「愛宕=おたぎ」との読みの方が古い音のようで「くねくね折れ曲がった道が出会うところ」というような意味だそうです。


 鳥居本(Map)


 ここが愛宕神社参道の入り口になります。
 鳥居のたもとには、清滝川で取れた鮎料理を出す創業400年という老舗の料亭(鳥居奧&下写真)があります。(ここは日付ラベル付いてないから大丈夫と……)
 そこを含めたこの付近には、茅葺き屋根の家屋が町並み保存地域として残されていて、屋根上の苔が立派なこと(こういう表現で正しいのか?)に目を奪われます。
 この街道は(愛宕念仏寺も含め)北斜面側に家屋が並んでおり、陽当たりが悪い環境にあるおかげで(これも申し訳ない表現で失礼)このような特徴が生まれたのだと思われます。



 上写真は、屋根上に生えた苔の上で紅葉したと思われる楓の小枝。
 そんなたくましい植物を他にも撮ったのですが、色合い的にはこれがいい感じかなと。

 ここは(右写真)下記の寺の前で、完全に観光地的な地区になってしまうのですが、茅葺き屋根の家屋が残されています。










 化野(あだしの)念仏寺(Map)


 化野(あだしの)とは正に字の如く「生が化して死となる地」、埋葬の地=西院(さい、賽)の河原の意味だそうで、この寺は多くの無縁仏を葬ることを目的に建立されたそうです。
 お気付きかも知れませんが、本日ここまでの行程は洛外であり、京都でありながらも都からはさげすまされて見られていたと思われる「西の果て=西院(さい)」の地域にあたります。
 最初に訪れた時「京都らしくない所だけど、好きだなぁ」と感じたのは、寺だけではなく周辺で他人の死後を守ってきた人たちの覚悟というか、そのしかばねの上に立つ身としての自覚のようなものを感じたからかも知れません。
 この寺には立派な竹林があります。それが「無縁仏の魂の生命力」にも感じられた、だなんて言ったら「何のこっちゃ?」ですよね……

 上写真左の木は、紅葉しそこねたように思えます(背景の赤は落ち葉ですから)。



 柿の木の生け花(?)、本物だと思います。
 そこまでするか? と思ったものの、ここで熟した実をいただくことに意味を見いだしているのかも? とも思われました。


 祇王寺(Map)


 ここも「めっさ、好っきやねん!」(使い方あってる?)
 本当に狭い敷地の尼寺なのですが、その怨念じゃなくて(失礼)想いが昇華して凝縮したと思えるような見事な庭で、本当に心奪われる空気を持った場所であると、今回も心酔しました。
 「木がねぇ、訴えかけてくるように見えてくるんだよね」じゃ伝わらないか……
 心の中で「素晴らしいなぁ」とつぶやくと、反応するかのように艶っぽく見えてくる気がするってのは、恋愛みたいなものかも知れません。


 そんなことを考えているうちに、先週の大沢池と比較しようとしていました。
 女の人はここ祇王寺のように、狭くてもいいから自身の目が届く範囲で秩序が保たれていれば満足なのではないか?
 ──そのくせ隣の庭をうらやましく感じてしまい、急に大きな夢(野望)を抱いてしまうのではあるまいか。
 男は大沢池のように、全体を把握できないくせに広々とした池が広がっていれば満足なのではないか?
 ──そのくせ足元の小さなゴミが気になると、全体が気になってしまうのではあるまいか。
 これは勝手な考えですが、そんなことありません?




 二尊院(Map)

 前回スルーしちゃったのですが、名をよく耳にするので寄ってみました。
 このお寺は、総門から続く長い馬場(? と書いてある)が撮影ポイントと思われますが、どうもいいのが撮れなくてこの写真になりました。
 「二尊院」と言うくらいですから、二体のご本尊「釈迦如来」「阿弥陀如来」がいらっしゃいます。
 ここで浅はかなわたしは、以前の奈良「山の辺の道─金屋の石仏」と同じかも? と思ったのですが、あちらは「釈迦」と「弥勒」でした。
 「宗派対立で争うのはおかしい」とか言いながらも、基本を勉強しておかないと説得力もあったもんじゃありませんね……
 この山の上には、小倉百人一首を選定したと言われる「時雨亭跡」があるそうですが、わたくし素養がないものでゴメンナサイ。
 また、往年の映画スタア阪東妻三郎、息子の田村高廣さんのお墓があるそうですが(阪妻さんの『雄呂血』などのファンなのですが)、重ねて……

 「大原」「哲学の道周辺」と並んでここ「奧嵯峨」は、メジャーでありながらオススメできる場所だと思います。
 東福寺で「京都ってひどいところね」と嘆いていた娘さんに紹介してあげたいと思ったのですが、「こんなの京都じゃない」とか言われそうな気がしてきました…… 
「そんなこと知るか!」

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