2008/01/20

冬の静けさ──龍安寺、等持院、北野天満宮

2008.1.19
【京都府】

 龍安寺(りょうあんじ)(Map)

 小雪も舞ったここ一週間の冷え込みは厳しいものがあり、この辺が「寒さの底」であってもらわないと、心まで縮こまってしまいそうです。
 しかしさすがにこの寒さの中、観光に訪れる人も少なくなるようで「京都でもこんな時期があるんだ?」と実感できる人の少なさです。
 あの嵐山・渡月橋を渡る人影もまばらです。でも、土産物屋には人があふれているんですよね。

 前回訪問時のもの凄い混雑に「もう来てやるもんか!」と思った龍安寺ですが、参道や池周辺の写真を撮ろうと立ち寄り、人の少なさに誘われ入ってみたら、スカスカで石庭の縁側に座ることが出来ました(前回は2重になって座っていましたから)。
 「おぉ、この感覚かぁ!?」
 ゆったりと座って庭を眺めていると、雑念が消え去り心が和んできて、尻に根が生えてくるのを自覚できます。
 まさかこの場所を独り占め出来るわけもないのですが(むかーしのゴールドブレンドのCMでしたか? のように)、実現したら風邪をひくまで座っているかも知れない(決して大げさではない)と、思えました。
 なるほどなぁ、この冬の寒さも自分を見つめるためには必要な環境条件なのか? と……
 今回、その良さを理解できて好きになりましたが、普段は混雑しているので全然オススメできません。


 参道脇のあまり手入れをされていないように見えた植え込みを撮りたかったのですが、冬ということもありきれいに刈り取られていました。と言うことは、たまたま乱れていただけなのかなぁ? 野放しの生け花(意味伝わるかしら?)みたいで、印象に残っていたのですが、跡形もありませんでした。
 上写真の木、根っこは元気そうに見えるのですが樹頂はこの姿です。きっとこれを枯れているとは言わないのでしょう、倒れぬようにしっかりと支えられています。確かにこの木の姿にはインパクトあります。


 等持院(Map)

 室町時代を支えてきた足利一族の菩提寺です。
 龍安寺(臨済宗)もそうですが、これから少し禅寺をめぐろうと思っています。
 個人的な関心事なので、右写真のようにどんどん渋く地味になっていく気がしていますが、花が咲くころには元に戻っていると思います。

 少し調べてみて何か書けるものがあればと思ったのですが、臨済宗だけでも宗派が多いらしいのでとりあえず「妙心寺派が最大の組織だそうです」ということで。
 何で禅宗に関心を持つかと言えば、信心によって極楽浄土へ行けるとか、現世で御利益があるなどという「オイシイ話し」よりも、いいか悪いかは自分の判断になりますが、その答えにたどり着いたプロセスを自分で納得できる「答え(悟り)を求める姿」に、知を欲する貪欲な「人間の美醜」が感じられるからだと思います。
 祈りは大切と思いますが、自らを戒める努力も不可欠なのではないか? と思えてきます。
 己の中に進む道を探求する姿勢、とでも言うのでしょうか、救いを待つのではなく、道を求めて行くべきではないか? と思います。
 わたしには、現代の京都の「古きを捨てずも新しきを求める」(常に新しいモノを求め即座に昇華して自らを洗練していくが、古くても良いモノは生かし続ける)姿に、そんな精神が息づいているように思えます。

 現在のわたしの認識では、裾野が広がってしまった禅宗ですが、各宗派ともに源流的存在として達磨大師を信奉する共通認識があるそうです。


 古都京都の文化的基盤を考えた時、宮廷や貴族たちによる「雅」な文化は他には存在しないので確かに目をひくものではありますが、庶民には「そんなの関係ねぇ」わけで、むしろ「わび」「さび」に代表される「はかなさ」を説いた質素な生活様式こそが庶民に受け入れられ、文化として花開いたのではないかと思いますし、そこで「いき(粋)」というものが生まれたのではないかと思えます。
 それは貴族や利休などの文化人が生んだ「価値観」などではなく、庶民の感性(生き方も感性と思う)から生み出されたと言える「心意気」というものを持った生き方のことなのではないかと思います。
 わたしも関東出身なので「粋」から即座に連想するのは「江戸っ子」なのですが、あれは「やせ我慢」を「いきがる」江戸流の方便なのではないか? と思うようになってきました。
 本来の「いき」とは、質素ではかなげではあるものを、わずかなひと工夫を加えることで自分が「遊び」、周囲を和ませ一緒に「楽しもう」とする「自己表現手段(アイデンティティ)」の一種と言えるのではないか? と思うようになりました。
 権威的に押しつける「価値観」によって金額が決まるような普遍性を定めようとするものではなく、お金を掛けずも手間を惜しまなければ誰でもが作り出せる「個人的な価値観」が、他人から共鳴を受けたとき初めて「いき」と認められる(感じてくれる人がいなければ子どもの悪戯みたないもの)ような、社会が生み出す「生き物」なのではないか、と思うのです。
 だからこそ、今でも自由さを失わない町中でそんな「いき」に接した瞬間に、ニヤっとしたり、うれしくなったりするのではないか? と思っています。
 「いき」に「生きる」人々の社会的基盤となったのが、「わび」「さび」という現代の日本人にも通用する(理解される)「はかなさ」を持ち合わせた生活様式「美」であり、「京都の町」にはまだ健在であるからこそ、魅力的な町であるのだと思います。
 それは、禅の文化を取り入れたのは足利一族で、平安や鎌倉の世から独立した文化を築き上げましたが、現代にまで受け継がれてきたのは、この土地に生活してきた人々の積み重ねによるもので、そのおかげで現在でも「京都と禅宗」が切り離すことの出来ない関係にある、と思わせてくれるのではないだろうか。
 そんな「町の気風」というものが、今でも変わらないと感じさせてくれることは、町の誇りと言えますし、その最大の功労者は、この町で生活してきた人々なのではないかと思います。


 ここ等持院では、前にも後にも観光客はいたのですが全体的に少なかったので、ゆっくりできました。
 庭を散歩する時にはスリッパからサンダルに履き替えて出て行くのですが、脱いだスリッパがひとつもありません。
 「おぉ! 庭を独り占め?」 いやぁー、堪能できました。
 本来は、こうやって味わうために作られた寺であったり、庭であったりしたんですよねぇ。何より静かなのが一番うれしい。
 まあ、沖縄のビーチを独り占めと同様どの場所でも、見回せる景色の中に他人の姿や声が聞こえない空間にポツリと立つと、「自己」というものがわたしの肉体から解放されて勝手にその辺に歩き出して行って(妙な表現でスミマセン)、自分の視野からは見えないものを感じられた気分になれることがあります(これは、病気かね? 鬼太郎のおやじをたくさん飼ってるんです……)。
 それを一度でも経験してしまうと、病みつきになってその場所が忘れられなくなっちゃうんですよねぇ。
 それが、あちこちを歩き回ろうとする重要な動機のひとつなのだと思います。




 平野神社(Map)


 大きな木々と4つ並ぶ神殿が印象に残っていました。
 神社様式の「右橘、左桜」の橘(たちばな)が実をつけていました。初めて見た気がします(実物はもっと黄色い)。
 十月桜(じゅうがつざくら)という冬に咲く桜がホント寒そうに花開いています。
 境内は広くないのですが、桜苑という桜の珍種を50種類も植えてある一画があります。種類が多いと一斉には咲かないのかも知れませんが、今年の春は寄ってみようかなと思います。






 上七軒町(Map)

 祗園とは離れていますがここにも置屋街があり(京で一番古い花街らしい)、どうにもおぼつかない三味線の音が聞こえてきたりします。
 若い舞妓さんの仕事は接待や踊りで、おおむね20歳を過ぎると鳴物でもてなす芸妓さんになるそうです。やはり、芸を身に着けてやっと一人前ということなのでしょう。
 旦那衆は「あの娘はいつから聞かせてくれるんだい?」なんて言ってそうですが、それって「いつから大人の付き合いができるんだい?」ってことになるんでしょうねぇ……
(少し前に何かで知った舞妓さんのブログ)。
 これを読んで、彼女たちは商売人なんだからと、少し熱を冷まさないといけませんよねぇ。

 この通りは自動車が通る生活道路なので少し落ち着けませんが、各家軒先のちょうちんの下に思い思いのマスコットが下げられていて、それを見て歩くのもなかなか楽しい通りです(下だけ揺れててよく撮れませんでした)。


 北野天満宮(Map)


 京都の北野天満宮です。京都の中で最も広く庶民に親しまれている神社ではないでしょうか。
 受験シーズンですから、学問の神様である天満宮には合格祈願などの絵馬が鈴なりです。
 お参りする人たちの目的もハッキリしており、目が真剣なのであまりおじゃまできない雰囲気もあります。
 折しもセンター試験の日ですし、おやごさんがクルクルとねずみのようにいくつもの祠を回っている姿が目につきました。
 上写真は拝殿なのですが、天神様だと鏡があっても「自分の力を信じなさい!」と言われているようで、納得できるような気がしてきます。
 ──鏡に映っている人の願いをカメラで吸い取っちゃったかも知れないと、反省です。魂までということは無いと思うのですが……


 わてが、京都の牛だす。(表現おかしい?)
 後ろから聞こえる声も「子どもの頃、頭をなでさせられたけど……」の類で、そこまでしか聞き取れませんでしたが、先が読めそうな口ぶりではありました。
 親ならば、子どもを連れてきたいという気持ちになること、理解出来ます。

 新京極の錦天満宮の牛もホント、テカテカでした。また機会があれば撮ってきます。

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