2008/02/02

迷い道くねくね──妙心寺

2008.2.2
【京都府】

 妙心寺(Map)


 何か解ったような気がしてきました。
「解ったと思っていたことが錯覚であった」ということが……
 何だか禅問答のようですが、ここは禅宗の最大宗派、臨済宗妙心寺派の総本山の禅寺ですから、許されますよね。
 ここは、妙心寺を中心にそれを囲むように塔頭(たっちゅう)寺院が建ち並び、甲子園球場(関西で広さの比較対象といえばこれ)7個分(だったか?)にも及ぶ一帯が、同一宗派の宗教施設となっています。
 塔頭とは、禅寺の祖師や高僧の死後、その弟子が師を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)や敷地内に建てられた小院のことで、妙心寺には48施設あるそうです。
 先日の龍安寺も妙心寺の塔頭寺院からはじまったようで、後には龍安寺を取り巻く塔頭寺院がいくつも造られ、その活動を拡大させたそうです。

 拝観できない寺院の通路や玄関前に、上写真のような丸石が置かれています。調べてみたのですが、ちょっと見つかりませんでした。
 おそらく京都でよく見かける、竹を横たえた進入禁止的な意味合いと思われます。こちらの方が古くから使われていた合図のように思えます。
 右写真は「柱は1本の木に限らず」(力を合わせて支えるものだ)と言いたげな柱で、渡り廊下の柱はみなそのように接がれていました。

 前回訪れたときも「迷路のようだ」と思った、白壁がかぎ状に折れ曲がった境内の道があります(下写真の場所はカーブを描いています)。
 ──ここはとっても素敵ですから、時間がある方は是非!
 そこを、自転車の女子高生が走っていく姿がとても絵になるんですが、「ドラマのいい舞台になるなぁ」なんて見とれていたもんで、シャッター押せませんでした(どうも、人を撮ろうという意識に欠けているというか、遠慮している気がします)。


 前回の「迷わせて救う」だなんてタイトル、何も分かっちゃいないよねぇ。「迷っている」ことに気がついていないのは自分なのにねぇ。
 「こんな、意識を惑わすような道を作って」と思ったものですが、そう感じているのは「自分の意識」なわけで、例えここを目を閉じて「心の目」で通り抜けられるようになったとしても、次回も同じように抜けられるとは限らない、と言われているような気がしました。
 人の心とは「常に変化している故に危ういものだ」と、警策(きょうさく:座禅で喝を入れられる棒)で脳天をパチンと叩かれたような気がしました。

 法堂(はっとう)の天井に描かれた「雲龍図」、明智光秀が信長を倒した後に身を清めたと言われる「浴室」(サウナ風呂のようなもの)などを、ガイドしてもらうのですが「千五百○○年に○○によって…」などという説明を聞いていると、口をポカーンと空けて自分の意志では何も行動できない修学旅行生のような気分になってきます(そういうの好きではないので、これまで京都でもほとんど避けてきました)。
 でも、しんしんと冷たい空気の中、ガイドの人に言われるままに天井を見上げながらお堂の中を回ったり(猿回し?)、国内最古と言われる鐘の音(録音だと思う)を聞いたりと「ポケーッ」としながら付き合わされる時間に、あれこれ考えることができて「これも悪くないなぁ」という気がしたのも実感です。

 右写真は桂春院の玄関ですが、ここの庭はまま有名なようで、前回はお尻に根の生えた人や抹茶をすすっている方もいましたが、今回は貸し切りです。
 庭は広くないんですが、その分手入れは行き届いている印象があり、暖かい時期であればのんびりしたい縁側です。


 ここは「沙羅双樹(さらそうじゅ)の寺」と呼ばれる、東林院になります。
 ──「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす……」何度も出てきてしまう『平家物語』の一節です。
 沙羅双樹の花は、朝に咲いた花が夕には散ってしまう「一日花」ともいわれるはかなさがあるところから、この世の無情さの例えに用いられたのでしょう。
 その鑑賞会が毎年開かれているそうで、形あるままに散る花をめでる会のようで、いきであるようにも思えるし(写真を見るととてもキレイ)死後はそうでありたいという願望も理解できますが、ちょっと未練がましい気がしてしまいました(これはその様子をネットで調べただけなので、未体験の単なる印象です)。死に際は潔くとの願いは、生への未練をどれだけ断ち切れるのか、によると思うのですが……
 しかし、その沙羅双樹の木は枯れてしまったそうです(樹齢300年程度らしい)。刹那を楽しむ樹の死を悼むとは、実に京都(日本)的と思います。
 この寺では、石畳の丸石が脇によけてありました。
 入ってもよろしいという合図と理解し、上写真を撮らせてもらいました。


 上下写真は、先週のものです(退蔵院)。
 ひとつの波紋は、岩とぶつかることで新たな波を生み出す、とでも語りかけているのでしょうか? 右上に岩があり、右側の円弧の波形はそこから生まれた波紋のように見えます。
 静かで落ち着ける時を持てたので(終了間近で貸し切り!)、じっくりと感じ入ることができました。
 拝観終了直前って門は閉まってしまい、通用口の狭い戸をくぐって外に出るのですが、それも風情があって良いのです。
 やっぱ、冬ですよ!
 ──散策時の寒さ(歩いていれば)には慣れてきたような「錯覚」を覚えるようになりつつあります。

 華やかさがないこと、浮かれた空気が感じられないこと、そして観光客が少ないことからも、落ち着ける好きな場所です。


 歩いている時にタイトルを想起したのですが(「迷い道」by渡部真知子。帰ってから久しぶりに聴きました─若いころよく聴いていました)、恋の歌は人生の唄とも受け止められるのですが、その頃聴いた「迷い道」と、今のそれとでは違うのではないか? それは、その時節の心象風景のひとつなのではないか? とも思えます。
 しかし、心象風景とはどの時においても「その瞬間の一断面」であるわけですから、重さには変わりは無いはずです。
 否定するのは個人の勝手ですが、わたしはそれを否定しきれないので、この日から少しずつひもとこうかと考え始めています。

2 件のコメント:

woo さんのコメント...

頂いた賀状で知り、きてみました。
うーん・・渋い、渋すぎる!
行く場所も、写真も・・。
今後も楽しみに拝見させていただきます。
              

mizu さんのコメント...

ご訪問ありがとうございます。
でも「woo」さんではどなたか分からず、何て書いて良いのかも……
年賀状を出した方なので、知り合いなわけですからなおさら困っちゃいました。
まだしばらく寒い日々が続くので、シブめが続く予定ですので、お楽しみに!