2007.06.02
【京都府】
光縁寺(Map)
最初に断っておかなければならないのは、わたしは新撰組ファンではないということです。
幕末に対する見解においては、革命推進派への思い入れが強いので、新撰組は敵に含まれます。まあ、目くじらを立てることではありませんが、本もテレビも見てないので知識はほとんどゼロです(映画の『御法度』は観ましたが、役に立ちませんわね)。
ここは隊士たちの墓があることで有名になり「沖田の墓は何でないんだ?」の問い合わせに窮した住職が、自分で沖田の墓を作ったとの逸話があるそうです。
そうでもしないと納得しないファンの心を静めてくれた、心温まるお話しです。
でも、過去の偉人たちを供養しようと建てられ今に伝わるものはたくさんありますから(義経に関するものなど数えられないのではないか?)、これも方便と仏様もおとがめにはならないでしょう。
八木邸(Map)
新撰組の壬生屯所として一般公開されています。近くの前川邸(新撰組とは関係ないが昔の町中の写真が展示してあり、嵐山の渡月橋の素朴さに見入ってしまいました。室内未公開)など、いくつもの家に分宿していたようです。
八木邸では芹沢鴨がつまずいた文机や、かもいの刀傷などの伝説と身近に接することができますが、入館料1,000円です。
説明員の方が解説してくれるのですが、再訪らしいおっちゃんが「これが刀傷や、ずいぶんすり減ったなあ」と「触らないでください」の注意書きのある傷跡をなでなでしてるのを、説明員がやんわり注意すると「○○(場所名)にある鉄砲玉の跡もツルツルやったで」と、手振り(指をグリグリ)をまじえて解説してました……
減るモンなんですから、お客さん! お触りは禁止です。
壬生寺(Map)
新撰組の訓練場だったとのこと。昔はもっと広かったのかも知れませんが、ここで大砲を撃ったなど現在では想像できません。
境内の一角に、新撰組コーナー的な庭があり、石碑や銅像(近藤勇)などが狭い場所に並べられています。壬生寺のホームページには「京都における新選組に関する資料は極めて少ない」ともあり、あまり好感を持たれていなかったのではないか? という印象を受けました。今では、そのおかげで人が集まって来ているのに、とも思うのですが……
以前、節分の晩に偶然通りがかり、ものすごい人出の中で次々と炮烙(ほうろく:素焼きのお皿)に願い事を書いて奉納していたのが、とても印象に残っていました。
その後、名前だけは耳にしたことがある「壬生狂言」(境内の狂言堂で行われる)で、奉納された炮烙を舞台から落として割ることで無病息災を祈願する様子をテレビで見ました。
なるほど、行事を連携させていくことで人の心をつなぎ止めているのかと、節分のあの賑わいのわけが分かった気がしました。
門の前でどこを撮ろうかと、キョロキョロしている時「旦那さん京都の人かい?」と、写真の自転車に乗った老人に声を掛けられました。
この方「私設解説員」らしく、新撰組とこの界隈の歴史についてあれこれ聞かせてくれました。
新撰組についてド素人のわたしは「○○(人名)を知っとるかね?」と、何人かの名前を出されても「いえ知りません……」と答えるしかなく、老人も話しがいのない奴だと思っていたことでしょう。
きっと、名物じいさんなのではないかと思いつつも、新撰組ファンの方はこの方が元気なうちに壬生寺へ出かけられることをオススメします。ちなみに、訪れたのは土曜日です。
上の写真にも写っているし、付近を結構チョロチョロしています。イエイエ、決して悪口などではありませんよ……
島原(Map)
昔は、祗園よりも格の高い花街だったそうです。
上が島原大門で、花街の入口です。
右が輪違屋(わちがいや)といって、現役の太夫(花魁:おいらん)のいる置屋で、太夫道中(花魁道中をそう言うらしい)を復活させたそうなので、一度拝見してみたいと思います。
その下の角屋(すみや)は揚屋といって、太夫を呼んで宴会を開く座敷だそうです。
久坂玄瑞密議の石碑があることからも、きっと倒幕派と佐幕派が鉢合わせた花街ってのは、この辺りだったのではないでしょうか。
新撰組ド素人でも、誠の隊旗は知っている訳で、その言葉を考えながら歩いていましたが、もはや死語なのではないか? と……
彼らの誠は、幕府(主君)への忠誠心であり、武士道の根幹となるべきものであって、そこに自身の存在理由も求められるほど純粋で、ある意味美しい精神であったと思われます。
でも、今はどうなのでしょうか? 会社への忠誠心と言っても、それは契約に過ぎず(キリスト教などの神との契約とは意味が違うし)契約が切れたら(定年が来たら)一度ご破算になるわけで、それでも愛社精神を持ち続けることは大切ではあるけれど、命を賭して守るべきモノという感覚ではないと思う。
では、どこで使われるのだろう?
夫婦間で使われるのであれば納得できますが、だとすれば現代の誠は人の数だけある分求心力を持っていないわけで、それは当時の誠とは本質的に違っている、と思われます。
不要であると言うよりは、必要としていない、と言った方が近い気がします。
いざ、と言うときには「島国根性」の旗の下に一枚岩になれるとも思いますが、それでいいのだろうか? の答えは、民族・宗教紛争が絶えないこの星では、なかなか見つからないのかも知れません。
新撰組に参加した田舎の若者たちは「いざ!」という時代に参加するためのより所として「誠」なることばを祭り上げたのではないかと思います。
倒幕派の若者たちも同様に、国を挙げての祭りに参加するため「錦の御旗」が必要だったのだと思います。
しかし、転がりだした現実は旗印をはるかに超えてしまい、収拾がつかなくなってしまったわけで、その後の戦争のような「玉砕」を覚悟した内乱を避けるために、誠(故郷への心)を守ることで殉死したと言える西郷隆盛(と理解していますが、違っていたら指摘してください)を最後に、その言葉の意味する概念は消え去ったのではないでしょうか?
その後の戦争は明らかな侵略であり、切ないほどの履き違えを強いられていたわけで、その時代の「誠」ということばはすっかり色あせていたのではないかと思われます。
大切なのは(血を流すことが必要かは別にして)、みんなが真剣に国の行く末を考えたということなのではないでしょうか。
だからこそこの時代においても、立場を越えて往時を偲ぶ人が絶えないのだと思っています。
西本願寺(Map)
現在本願寺(西・東)は平成の大修復作業中で、工事中の壁や柵に囲まれ中をうかがえません。
──上の写真は、門前を横切る堀川通を挟んだ場所にある外門に続く門前の通りから西本願寺の工事中の壁をのぞんでいます。
しかしそれにしても、どちらもデカイ!
それは、信仰の対象としての「大本山」のありがたみというよりは力の誇示に見えてしまうほど、広い土地と大きな建造物からの威圧感に圧倒されてしまいます。
──知恩院(浄土宗総本山)もデカイと感じましたが、まだ象徴的な存在と感じられました。
日本で最も信者が多いとされる浄土真宗であったとしても、西は秀吉、東と知恩院は家康の庇護を受け発展したそうなので、どちらも本質的な教義の優劣で勢力を伸ばしたとは思えない点では同じではないかと感じてしまいました(こんなこと書いたら怒られそう……)。
信者が増え、宗派に属する寺が全国に数多く存在する総本山とすれば、それらを束ね導き、後継者の育成そして管理までせねばならないわけで、大きくなければやりきれないというのも現実、とも理解できますが……
※ここで、フォローの豆知識。
浄土真宗は通称「一向宗」「門徒宗」と呼ばれます。そうです、日本史で耳にしたことのある「一向一揆」の張本人です。それじゃ、フォローになってない?
でも「浄土真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない」ことをわたしも初めて知り、ひとつ偏見が取り払われたということで……
太鼓楼(Map)
西本願寺の太鼓楼近くに移った新撰組ですが、太鼓楼にまつわる記録にも良く書かれたものはないらしく、結局不動堂村へ寺のお金で移転させられたようです。
どちらでも目にしたのが「豚を飼う」迷惑ということですが、当時の京都で豚を飼うなんてあり得ないことだったのだと思われます。
そうか新撰組の若者たちは、幕府の下で待遇が悪くとも「武士」としての振る舞いを認められたい一心で上京した田舎者ばかりで、都人たちにうとまれる存在だった、ということか。
──倒幕派の連中も同様にさげすまれて見られていたことでしょう。
それでも腐らずに誠を貫くことに青春を燃焼させた若者たちだった、ということなのでしょうか?
であれば、わたしも思い入れができる気がしてきました(何を今さら、ですけど……)。
東本願寺(Map)
西も東も「大本願寺」に違いない。
などと、解釈を放棄したようなこと言って申し訳ありませんが「もう十分」というのが本心です。
ですが、ここで目立つのがアジア系(韓国・中国)の観光客です(以前も、韓国の観光客に道を尋ねられた)。
あちらに友好寺院でもあるのだろうか?
「そこ、ちょっと勉強不足ですねぇ」と突かれたらグゥの音も出ない……
何か、もう調べる意欲もなくてスミマセン。
今回は新撰組ゆかりの地ということで、ちゃんと書かないとしかられそうな気がして、リキを入れたので果てました……
本願寺の南側は七条通になり、JRの京都駅はもう目の前です(写真後方は京都タワー)。
次回からの京都行きは、阪急(四条に駅がある)ではなくJR京都からのスタートになります。
2 件のコメント:
しめた、safariがおちない!
慌てて書き込みます。
新撰組、ですね。うらやましー。
「誠」。んー、なんなのでしょうね。
水さんの言われるように、やはり当時の日本を真剣に思っていたことは間違いないのでは、とも思いつつ、当時の京の街では迷惑な存在だったのでは? という気もします。
でも、なぜこんなにも語り継がれ、受け入れられているのか。
「誠」の字から連想するのは、時代劇などでよく使われる「忠誠」。これもありかとも思いますが、私は何に対してかは漠然としているのですが、「誠意」に近いのかなと受け止めます。そうあって欲しいという、すでに過ぎた歴史への自分勝手な解釈です。
彼らはおそらくは近代最後のバカ者たちだったのかもしれません。時代の流れに取り残されて賊軍となっていく。しかし自分たちの思いを曲げず(というより曲げることを知らなかったのでは)、結局は全滅に近い状態。
数カ月前、ホントにたまたま近藤勇の墓をみつけました。「あらー、こんなとこに・・・」
小さな敷地の中にでっかい塔のようにそびえておりました。首から下だけが埋葬されているとの事。改装中(掃除中?)でカバーがかけられ、刻まれた文字がよく読めませんでした。
新撰組の生き残りの永倉新八が立てたそうですが、他にも生き残られた方の、私の知る限りの知識から察するに、共通する思いはやはり新撰組を愛していたのでしょう。
最後は近藤から去っていった人が墓を立てる、あるいは記念の品を終生大事に持っていた、それは結果はどうあっても、一時期を本気で「誠意」を尽くして一緒に生きたこと。消しがたく、尊い経験なのではなかったのかな。何かに本気で立ち向かった経験が、その後の自分を励ましてくれる。そうあってほしいなと思います。
やはり、幕末青春グラフィティなのでしょうか?
勝ち負けや、生死の一喜一憂もあったでしょうが、残った者は「よかった」としか思わなかったのではないでしょうか? それはきっと「自分はしくじらなかった」という意味だけで……
現代のように、個人の成功のために生きるのではなく、当時の志は、その最大の恩恵を受けている今の我々のための礎を築こうとしてくれた、と言う意味において敬意を示すべき存在なのだと思います。
いくら、品行が悪く、汚らしい「存在」であったとしても?──それは自分も同じと思えば、少しは力が出るのではないか、と思いますが……
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