2008.3.28-29
【京都府】
上津屋橋(こうづやばし)(Map)
やっと(?)「毎日が休日」に突入したので、前々日に車と宿を予約して郊外に足を伸ばしました。
木津川は三重県の青山高原の源流から奈良と京都の県境付近を流れ、京都と大阪の境付近で桂川(鴨川も合流)、宇治川(琵琶湖からの流れ)と合流して淀川となって大阪湾に向かいます。
ここから下流の「東西に流れる川」に対して感じる違和感というものをご理解いただけるだろうか?
生まれ育った関東平野では、相模川、多摩川、荒川など、川はみな北から南に流れて海にそそがれます。それを「縦に流れる」と表現するならばここでは「横に流れている」わけですから、太陽との位置関係や町並みの設計や家屋の建て方から受ける違和感にとまどってしまい「異国の印象」すら抱いてしまいます。
関東の川の両岸から川の方角は東もしくは西向きになるので、何となく両岸の家並みも川を向いていますが、ここの南岸から北側の川に向いた大きな窓を持つ家は少なく感じます。
人間にも体内に磁石のようなものを持っているようにも感じられ、わたしがサケの子どもだったら間違ってもこの川には戻って来ないだろうと思います。
──人間にもそんな方向感覚って大切だと思うのですが、方向音痴の人ってそういうことって感じないのでしょうか?
上述の三河川の合流地点から5km程度上流に、増水すると踏み板が橋脚から外れる「流れ橋」の上津屋橋があります。
板が外れてもバラバラにならないように、ワイヤが通されているのが写真から分かると思います。
この橋の存在を知ってからずっと、映画『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)の撮影場所ではないか? と思っていたのですが、もう記憶があいまいで分かりませんでした。再見してみます……
海住山寺(かいじゅうせんじ)(Map)
無理やり作ったと思われる道路は、急カーブ、急勾配で山を登っていきます。「この地にお寺を開く理由って何なのだろう?」と調べてみると、ここは奈良にほど近く一帯は奈良の文化圏に含まれ、奈良時代の有力豪族(橘諸兄:たちばなのもろえ)の本拠地で、735年に間もなくこの地に遷都することになる聖武天応の命によって建立されたそうです。
この五重塔は鎌倉時代建立と伝えられ、日本で2番目に小さいものだそうです。まさに必要最小限の五重塔との印象です(写真は塔の1階部分)。
恭仁京跡(くにきょうあと)(Map)
740年聖武天皇により平城京から遷都されたものの、完成をみずに743年に紫香楽宮(しがらきのみや)に移り、744年に難波京、745年平城京に戻ったとのことです。
わずか3年間の都だったり、転々としたあげく戻ったりと何のための遷都だったのでしょう?
おそらく有力豪族間の権力争いに翻弄(ほんろう)されたのかも知れませんが、庶民には迷惑な話です。
平安京(京都)遷都(794年)が数十年後にあったことを考えれば、奈良政権の末期的状況の現れのようにも思われます。
ですが、奈良時代とは710年〜794年とされているので、権力抗争に明け暮れた時代だったと言えるのかも知れません。
「恭仁宮大極殿跡」の石碑が倒れたまま放置されています。表には正規のものが立っており、別に荒れ果てているわけではないのですが、こんな姿で放置しておくのも何だかなぁ、と思ってしまいます。
笠置寺(Map)
この寺の起源は古いようで、弥生時代の祭祀に使用されたとされる石の険が出土したことから、当時から巨岩が信仰の対象とされていたと考えられているそうです。
寺院の建立は670年代で、修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)が詣でたという記録もあるとのこと。
境内というか、山肌に露出する巨岩をめぐる散策路全体が信仰の対象とされる修験道の修行場のような趣で、結構ワイルドな道です。
鎌倉時代末期には後醍醐天皇が立てこもり、鎌倉軍に討ち滅ぼされ寺も焼失したそうです。
まさか彼(天皇)は自分の足で登らなかったでしょうが、かなり急峻な山の上にあります。
岩船寺(がんせんじ)(Map)
「花の寺」とうたっているだけあって、決して大きなお寺ではないし、花の数が多いわけではないのですが、その配し方が見事と言うのでしょうか「センス」が素晴らしいと感じました。
今の時期は、梅が咲きモクレンのつぼみが開花の準備をしている早春という季節感ですから、花は決して多くありません。
ですがこの地ではきっと、季節の移り変わりを花の(木々の)姿から日々感じることができると思われ、見事に設計された庭園という印象を受けました。
写真で切り取る風景が季節ごとに変わっていくのだろうと、通ってみたいお寺のひとつに加わりました。
右下写真は、楓と思われる枝に新芽が芽吹いている絵になります。これが紅葉したらきっとキレイなんだろうと、想像でも楽しめる境内です。
ここも聖武天皇の命により、行基(奈良時代の僧侶)によって建立された(729年)そうです。
情勢の流れ的には、奈良の盆地から離れたいという機運が高まっていた時期だったように思えます。
この辺りは当尾(とうの)と呼ばれ(浄瑠璃寺を含む)、付近には当尾石仏群とされる鎌倉時代の石仏(野仏)や石塔が多数残されてていて、この日も石仏をめぐって散策する人が結構出ていました。
やはりその印象も奈良盆地にある「山の辺の道」の散策路に近いものがあり、現在ここは京都府ではあるのですが、奈良の文化圏であることを感じさせてくれます。
平安京に遷都されてからはこの辺りへの政府の関心も薄れ、鎌倉時代末期まで野放しだったのではという気もしましたが、それは歴史教科書で扱われていなかっただけで、関心があるならちゃんと勉強せい! ということですよね……
浄瑠璃寺(Map)
平安時代藤原氏の創建のよるものだそうで、建造物は三重塔のある東岸「此岸」(しがん:現世)から池をはさみ、西の彼岸の本堂にまつられる阿弥陀仏に来迎を願う」ように配置されていて、春・秋の彼岸の中日には彼岸の阿弥陀仏の後方へ太陽が沈んでいくとのことです(写真は東岸から西方浄土の阿弥陀仏がまつられる本堂をのぞんでいます)。
──平等院の鳳凰堂もそういった思想の元に建てられているとのこと、知りませんでした。また行ってみます。
本堂には9体の阿弥陀如来像が安置されています。それは「九品往生」(くほんおうじょう)思想に由来するそうで、東京の「久品仏(くほんぶつ)」の由来も同様か? との連想しましたが、確かめに行きたいと思います。
大河原 沈下橋(Map)
「恋路橋」と、どうも新しい小さな石碑がありました。
この橋の対岸には「恋志谷神社」があるそうで、そんなところからのネーミングと思われます。
わたしは、渡りませんでしたが……
前述の上津屋橋同様、洪水時に流されにくいよう簡素な構造の「沈下橋」で、四国(四万十川、吉野川)でよく見られました。
ここもかなりの暴れ川だったことが想起されます。
生駒山(Map)
下から山を見上げて「きっと眺めがいいんだろうなぁ」とずっと想像していたのですが、想像通りの見事な眺めでした(大阪市街を望む)。
東京にはこんな場所はないので、とても新鮮な景色に映りました。
別にキレイな景色ではないのですがね……
2008/03/31
2008/03/24
シーズン開幕──六波羅蜜寺、智積院、三十三間堂
2008.3.22
【京都府】
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)(Map)
プロ野球開幕、春の甲子園開幕と時を同じくして「京都の観光シーズン開幕」です。
一週間前とは明らかに人出の勢いが違います。行きの電車座れなかったもんなぁ。「エッ、そんなことで?」そういう実感こそ大切にすべきであると思いますし、散策を終えて何度か寄っている喫茶店も満席でした……
違う店ですが、今年初めてアイスコーヒーを頼みました。そりゃ、そんな季節にもなれば人が出てくるのは当たり前ですよね。
上写真はお寺の前に貼られているポスターを撮った「携帯写真的」なひどいもので申し訳ないのですが、この絵がないと始まらないと思い載せました。
パンフレットに「空也の寺」「源平両氏の中心史蹟」とあります。前回時間が遅くて拝めなかった空也像を見にきました。
どうもわたしには、写実的な像なのですが何だか寓話的な作り物という印象が強く、感銘を受けるに至りませんでした。
鹿の杖を持ち、金鼓を下げ、唱えた念仏から六体の阿弥陀が現れたという「伝説」をそのまま木造に表現しただけ、との印象以上のものを感じることは出来ませんでした。
そんな印象とは逆に平清盛像は、いまにも動き出しそうな生命力のようなものが感じられ、とても引き込まれました。
これは後でパンフレットから知ったのですが、空也という人は醍醐天皇の子息で西暦900年代の方で、この像は鎌倉時代(1200年代以降)の運慶(仏師で、先日運慶作と言われる仏像が海外のオークションに出て話題になった)の四男の作品と言われるそうです。
これはまるっきりの想像ですが「歴史上の人物を彫ってみよう!」という流れの中で生まれた、まま出来のいい作品として残されてきたのであるまいか、などと思ったなんて言い過ぎでしょうね……
空也に関連する寺は(神社だったか?)繁華街の四条にある高島屋の裏にもあったりするので、人々に愛されてきた人だと思っており否定するわけではありませんが、皇族の出というだけでフィルタをかけて見てしまう姿勢は良くないのかも知れない、と自分でも思ったりします。
「森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日あることを喜び、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えた」(パンフより)とあるように、高僧と言われるような権威とは無縁で、市民の中に入って「念仏の祖」と言われるほど民衆のために尽くされた方だそうです。
世間では「市の聖」(いちのひじり)と呼ばれ、尊ばれたそうです。それは人においての「誉れ」であると思います。
人物像についてはそんな認識はあるのですが、あの木造にはどうも……
正月らしいねぇ、と飲んでいた「大福茶」(紅白の小梅と結び昆布が入っている)ですが、ルーツは空也が疫病で苦しむ者にそれを与え念仏を唱えたことから来ているのかも知れません。
現在でも「皇服茶」として、正月にふるまわれているそうです。
少し前の大河ドラマ「義経」で義経(タッキー)が平清盛(渡哲也)を「六波羅様」と呼んでいたのが気になっていて、どこかで習った「六波羅探題」に由来するのだろうか? に疑問ついて、ようやく調べる機会を得ました。
六波羅とは、空也が創建した西光寺が後に六波羅蜜寺と改名され、この付近の地名になったそうです。
この付近に平家が供養塔を建てたことから六波羅邸が築かれ、清盛の時代まで「六波羅様」と呼ばれるようになったようです。
その後、平家の都落ちの後は源氏の所有物となり、京都守護職としての役所「六波羅探題」がこの地に置かれたそうです。
──何か、とってもスッキリしました。
ちなみに寺の名前にもある「六波羅蜜」とは、「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」なるものだそうです。
長くなるので、興味のある方は調べてみてください。
この地は洛外(都の外)であることを考えると、その当時武家はそう簡単に洛中に屋敷を構えることがかなわなかったのではないか、と思ったりします。
観光客や彼らを乗せたバスがみな黙々と坂を登っていきます。
そう「めざせ、清水寺」です。
そんな人たちが密集した清水寺の状況を想像すると、ゾッとします……
そんな流れを横切って五条坂付近の路地を歩いていると、河井寛次郎記念館などがある陶芸家が集まっている地区があります。
清水焼の流れの工房が多くあるのかも知れませんが、ちょっと陶芸には暗いので定かではありません……
その近くにレンガ造りの建物があります。写真は外壁だけが遺構として残されているもので、建物の一部ではありません。
そんなレンガ塀一枚を残すために木で支えられていたりするので、由緒のあるもののようです。その壁にわざわざ街灯を設置してあるところなんかに、粋さを感じたりしませんか?
智積院(ちしゃくいん)(Map)
また来てしまいましたよ、長谷川等伯(とうはく)の襖絵を見に。
イヤー、もう声が出ませんね。
キンキラした絵って好きではないのですが、この絵はずいぶんと色あせていてちょうど「枯れた迫力」を感じられるからか、たまりません。大好きです。
わたしもちゃんとした背景を分かっていないのですが、利休や秀吉の名前が出てきたりするので安土・桃山時代の人物(作品)で、よく耳にする狩野派(パンフレットより:威圧的か装飾的かの傾向に走った狩野派)に入門したそうですが、作風が合わずに対立していたそうです。
写実的な部分と、デフォルメ(いい加減と言うか、大胆に隠す構図と言うか)された部分が何の違和感も感じさせず調和して観る者に迫ってくるとでも言うのでしょうか、説明を放棄しているようで申し訳無いのですが、何だか「魔法」のようです(魔法にかけられてしまうわたしです)。
──以前紹介した、お猿さんが片手で木にぶら下がり手を伸ばしている猿猴捉月図も長谷川等泊によるものだそうです。
ちょっと、もう少し勉強してから再チャレンジしたい絵です。
何だか本日は着物の女性が多いと感じたのですが、このお寺には「着物の方は拝観無料」の看板が立っており、春の花灯路(夜間ライトアップ)が日曜まで行われている一環で、東山地区一帯でそんなキャンペーンをやっていたのかも知れません。
しかし、その着物に華やかさを感じなかったのは、春着物の色柄は控えめのものを着るなどの作法があったりするからでしょうか?
この点についてご存知の方がおいででしたら、ご教授下さい。
着飾った姿が「春の陽気に太刀打ちできていない」と言うことが不可解で、逆に「春の空気を引き立てる」意図であるならば納得出来るような気がするもので……
右写真は立ち入り禁止区域をその手前から撮ったものです。
その入り口にしゃがみ込んであれこれやって、もういいやと立ち上がって振り返ったその場に、住職さんらしき方が立っておられ、わたしの気が済むまで待ってくれていたようです。
恐縮して思わず「スミマセンでした」と声を発しましたが、無言で入っていかれました。
あまりいい写真とは思えませんが、このエピソードを書くために掲載しました。迷惑な話ですものね……
いつも思うのですが、いくらカメラを構えていようがズカズカとフレームに入ってきても構わないとわたしは思うのですが、どうも遠慮する習慣があるので、ハプニング的ライブな写真って撮りにくい気がしています。(それは遠慮してくれてるのに失礼ってもん?)
三十三間堂(Map)
是非再訪したいと思っておりました。
もう、静かなうなり声を上げ、手を合わせるしかありません。本当にシビレちゃいます。
自分で気に入ったものを他人に薦めることはしても、同意を求めたりはしないつもりなのですが(広隆寺の「弥勒菩薩像」がいくら好きでも)、この三十三間堂の千手観音像の前で何も感じない人はどんな人なんだろう? と逆に話しを聞いてみたい気がするほど圧倒されてしまうわたしです。
全部で1001体ある像を彫った人たちの祈りが、もしすべて一時に我が身に伝わってきたとしたなら卒倒してしまうのではないか? と思ったりもします。
創建は平清盛によるものだそうですが、幾度の修復を繰り返し現代まで守り継がれてきたということが「無常であっても無常ならざるものへの希求」(浄土を求める気持ち)が連綿と続いていることの証しであり、わたしたちが感銘を受ける最も大きな理由であると思われます。
現世では逆らえないことであるから死後の浄土を願うという気持ち、というものは理解できる気がします。
それを信じていれば、安らかな最期を迎えられるであろうことも……
しかし、そのために観音様が1001体必要であるならば、地上は観音様と亡きがらで埋め尽くされてしまうようにも思えます。
でもそんな絵を想像してみると、不思議と自然に思い浮かんできました。もちろん、現実になって欲しくない絵です──戦場のような絵とでも言うのでしょうか。
それがわたしの「おそれている状況」なのでしょうか、紙一重という天と地を垣間見られた気がするのも、心を解ける場所にいるからかも知れません。
しかし、ここで気持ちをしっかりと持たなければ「神・仏の虜」になってしまいます。
何が言いたいかというと「すがる」のではなく「苦しいときに祈る」という、日本人の「神仏とのスタンス」に魅力を感じている、とでも言うところでしょうか。
来月予定している沖縄編で、触れられたらと思います。
「もう拝観終了なんです」と警備員に説明を受ける観光客が「それじゃ清水寺に行こうか」と、これから(午後4時)向かう人がおります(この日清水寺はライトアップしているので余裕なのですが)。ホント、清水寺恐るべしです……
豊国神社(Map)
秀吉創建の大仏があった場所です。
この石垣の岩は3〜5m程度あり、相当デカイです。どうやって運んだんだろうという巨岩の石垣が、現存しているもので2〜300mくらい続いています。
「太閤検地」で厳しく取り立てられた税を、こんな石垣や大仏建設に使われたと知った人たちはどう思ったのでしょうか。
何度も再建されたそうですが「京都に大仏はいらぬ」との天命なのか、その度難に遭い石垣だけが残されて現在に至っています。
この西側に大仏様の正面の通りという「正面通り」の名称が今も残されています。
大仏殿跡地に、秀吉を祀る豊国神社があります。
そこの絵馬は、ひょうたんに願い事を書きます。芸事にご利益があるそうで、役者さんや歌手の札が見本として飾られていました。
【京都府】
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)(Map)
プロ野球開幕、春の甲子園開幕と時を同じくして「京都の観光シーズン開幕」です。
一週間前とは明らかに人出の勢いが違います。行きの電車座れなかったもんなぁ。「エッ、そんなことで?」そういう実感こそ大切にすべきであると思いますし、散策を終えて何度か寄っている喫茶店も満席でした……
違う店ですが、今年初めてアイスコーヒーを頼みました。そりゃ、そんな季節にもなれば人が出てくるのは当たり前ですよね。
上写真はお寺の前に貼られているポスターを撮った「携帯写真的」なひどいもので申し訳ないのですが、この絵がないと始まらないと思い載せました。
パンフレットに「空也の寺」「源平両氏の中心史蹟」とあります。前回時間が遅くて拝めなかった空也像を見にきました。
どうもわたしには、写実的な像なのですが何だか寓話的な作り物という印象が強く、感銘を受けるに至りませんでした。
鹿の杖を持ち、金鼓を下げ、唱えた念仏から六体の阿弥陀が現れたという「伝説」をそのまま木造に表現しただけ、との印象以上のものを感じることは出来ませんでした。
そんな印象とは逆に平清盛像は、いまにも動き出しそうな生命力のようなものが感じられ、とても引き込まれました。
これは後でパンフレットから知ったのですが、空也という人は醍醐天皇の子息で西暦900年代の方で、この像は鎌倉時代(1200年代以降)の運慶(仏師で、先日運慶作と言われる仏像が海外のオークションに出て話題になった)の四男の作品と言われるそうです。
これはまるっきりの想像ですが「歴史上の人物を彫ってみよう!」という流れの中で生まれた、まま出来のいい作品として残されてきたのであるまいか、などと思ったなんて言い過ぎでしょうね……
空也に関連する寺は(神社だったか?)繁華街の四条にある高島屋の裏にもあったりするので、人々に愛されてきた人だと思っており否定するわけではありませんが、皇族の出というだけでフィルタをかけて見てしまう姿勢は良くないのかも知れない、と自分でも思ったりします。
「森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日あることを喜び、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えた」(パンフより)とあるように、高僧と言われるような権威とは無縁で、市民の中に入って「念仏の祖」と言われるほど民衆のために尽くされた方だそうです。
世間では「市の聖」(いちのひじり)と呼ばれ、尊ばれたそうです。それは人においての「誉れ」であると思います。
人物像についてはそんな認識はあるのですが、あの木造にはどうも……
正月らしいねぇ、と飲んでいた「大福茶」(紅白の小梅と結び昆布が入っている)ですが、ルーツは空也が疫病で苦しむ者にそれを与え念仏を唱えたことから来ているのかも知れません。
現在でも「皇服茶」として、正月にふるまわれているそうです。
少し前の大河ドラマ「義経」で義経(タッキー)が平清盛(渡哲也)を「六波羅様」と呼んでいたのが気になっていて、どこかで習った「六波羅探題」に由来するのだろうか? に疑問ついて、ようやく調べる機会を得ました。
六波羅とは、空也が創建した西光寺が後に六波羅蜜寺と改名され、この付近の地名になったそうです。
この付近に平家が供養塔を建てたことから六波羅邸が築かれ、清盛の時代まで「六波羅様」と呼ばれるようになったようです。
その後、平家の都落ちの後は源氏の所有物となり、京都守護職としての役所「六波羅探題」がこの地に置かれたそうです。
──何か、とってもスッキリしました。
ちなみに寺の名前にもある「六波羅蜜」とは、「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」なるものだそうです。
長くなるので、興味のある方は調べてみてください。
この地は洛外(都の外)であることを考えると、その当時武家はそう簡単に洛中に屋敷を構えることがかなわなかったのではないか、と思ったりします。
観光客や彼らを乗せたバスがみな黙々と坂を登っていきます。
そう「めざせ、清水寺」です。
そんな人たちが密集した清水寺の状況を想像すると、ゾッとします……
そんな流れを横切って五条坂付近の路地を歩いていると、河井寛次郎記念館などがある陶芸家が集まっている地区があります。
清水焼の流れの工房が多くあるのかも知れませんが、ちょっと陶芸には暗いので定かではありません……
その近くにレンガ造りの建物があります。写真は外壁だけが遺構として残されているもので、建物の一部ではありません。
そんなレンガ塀一枚を残すために木で支えられていたりするので、由緒のあるもののようです。その壁にわざわざ街灯を設置してあるところなんかに、粋さを感じたりしませんか?
智積院(ちしゃくいん)(Map)
また来てしまいましたよ、長谷川等伯(とうはく)の襖絵を見に。
イヤー、もう声が出ませんね。
キンキラした絵って好きではないのですが、この絵はずいぶんと色あせていてちょうど「枯れた迫力」を感じられるからか、たまりません。大好きです。
わたしもちゃんとした背景を分かっていないのですが、利休や秀吉の名前が出てきたりするので安土・桃山時代の人物(作品)で、よく耳にする狩野派(パンフレットより:威圧的か装飾的かの傾向に走った狩野派)に入門したそうですが、作風が合わずに対立していたそうです。
写実的な部分と、デフォルメ(いい加減と言うか、大胆に隠す構図と言うか)された部分が何の違和感も感じさせず調和して観る者に迫ってくるとでも言うのでしょうか、説明を放棄しているようで申し訳無いのですが、何だか「魔法」のようです(魔法にかけられてしまうわたしです)。
──以前紹介した、お猿さんが片手で木にぶら下がり手を伸ばしている猿猴捉月図も長谷川等泊によるものだそうです。
ちょっと、もう少し勉強してから再チャレンジしたい絵です。
何だか本日は着物の女性が多いと感じたのですが、このお寺には「着物の方は拝観無料」の看板が立っており、春の花灯路(夜間ライトアップ)が日曜まで行われている一環で、東山地区一帯でそんなキャンペーンをやっていたのかも知れません。
しかし、その着物に華やかさを感じなかったのは、春着物の色柄は控えめのものを着るなどの作法があったりするからでしょうか?
この点についてご存知の方がおいででしたら、ご教授下さい。
着飾った姿が「春の陽気に太刀打ちできていない」と言うことが不可解で、逆に「春の空気を引き立てる」意図であるならば納得出来るような気がするもので……
右写真は立ち入り禁止区域をその手前から撮ったものです。
その入り口にしゃがみ込んであれこれやって、もういいやと立ち上がって振り返ったその場に、住職さんらしき方が立っておられ、わたしの気が済むまで待ってくれていたようです。
恐縮して思わず「スミマセンでした」と声を発しましたが、無言で入っていかれました。
あまりいい写真とは思えませんが、このエピソードを書くために掲載しました。迷惑な話ですものね……
いつも思うのですが、いくらカメラを構えていようがズカズカとフレームに入ってきても構わないとわたしは思うのですが、どうも遠慮する習慣があるので、ハプニング的ライブな写真って撮りにくい気がしています。(それは遠慮してくれてるのに失礼ってもん?)
三十三間堂(Map)
是非再訪したいと思っておりました。
もう、静かなうなり声を上げ、手を合わせるしかありません。本当にシビレちゃいます。
自分で気に入ったものを他人に薦めることはしても、同意を求めたりはしないつもりなのですが(広隆寺の「弥勒菩薩像」がいくら好きでも)、この三十三間堂の千手観音像の前で何も感じない人はどんな人なんだろう? と逆に話しを聞いてみたい気がするほど圧倒されてしまうわたしです。
全部で1001体ある像を彫った人たちの祈りが、もしすべて一時に我が身に伝わってきたとしたなら卒倒してしまうのではないか? と思ったりもします。
創建は平清盛によるものだそうですが、幾度の修復を繰り返し現代まで守り継がれてきたということが「無常であっても無常ならざるものへの希求」(浄土を求める気持ち)が連綿と続いていることの証しであり、わたしたちが感銘を受ける最も大きな理由であると思われます。
現世では逆らえないことであるから死後の浄土を願うという気持ち、というものは理解できる気がします。
それを信じていれば、安らかな最期を迎えられるであろうことも……
しかし、そのために観音様が1001体必要であるならば、地上は観音様と亡きがらで埋め尽くされてしまうようにも思えます。
でもそんな絵を想像してみると、不思議と自然に思い浮かんできました。もちろん、現実になって欲しくない絵です──戦場のような絵とでも言うのでしょうか。
それがわたしの「おそれている状況」なのでしょうか、紙一重という天と地を垣間見られた気がするのも、心を解ける場所にいるからかも知れません。
しかし、ここで気持ちをしっかりと持たなければ「神・仏の虜」になってしまいます。
何が言いたいかというと「すがる」のではなく「苦しいときに祈る」という、日本人の「神仏とのスタンス」に魅力を感じている、とでも言うところでしょうか。
来月予定している沖縄編で、触れられたらと思います。
「もう拝観終了なんです」と警備員に説明を受ける観光客が「それじゃ清水寺に行こうか」と、これから(午後4時)向かう人がおります(この日清水寺はライトアップしているので余裕なのですが)。ホント、清水寺恐るべしです……
豊国神社(Map)
秀吉創建の大仏があった場所です。
この石垣の岩は3〜5m程度あり、相当デカイです。どうやって運んだんだろうという巨岩の石垣が、現存しているもので2〜300mくらい続いています。
「太閤検地」で厳しく取り立てられた税を、こんな石垣や大仏建設に使われたと知った人たちはどう思ったのでしょうか。
何度も再建されたそうですが「京都に大仏はいらぬ」との天命なのか、その度難に遭い石垣だけが残されて現在に至っています。
この西側に大仏様の正面の通りという「正面通り」の名称が今も残されています。
大仏殿跡地に、秀吉を祀る豊国神社があります。
そこの絵馬は、ひょうたんに願い事を書きます。芸事にご利益があるそうで、役者さんや歌手の札が見本として飾られていました。
2008/03/17
春うらら──赤山禅院、曼殊院門跡、詩仙堂
2008.3.15
【京都府】
赤山禅院(Map)
思考回路が停止したかのようなタイトルですが、そんな心地いいと感じられる「ほどよい陽気」とはまさにこのことかと、脳みその中まで緩んでいくようです……(冬が寒いからそう感じられるのでしょう)。
最高気温は15度程度でも、雲ひとつ無い青空からふりそそぐ日差しを浴びながら歩いていると汗ばんでくるほどです。
お彼岸前なのに「今年の春は足早で助かるなぁ」と思っていられたのは今や昔。「温暖化の影響だったら困るよなぁ」という不安を抱いてしまうのが現代に生きる者の「さが」と言えるかも知れません。
でもそれって、早い春の訪れは喜ぶのではなく、憂うべき季節感としてとらえろ言うこと?
冗談じゃございません。地面から緑が芽吹き、花が開き、鳥がさえずりはじめるわけですから、共に喜びたいに決まってるじゃありませんか。
そんな憂いを感じることなく、春を迎えられる地球環境でなければなりません。絶対に!
ここは比叡山延暦寺の別院なのですが、京都の表鬼門(東北の隅)を守護し、七福神の福禄寿のお寺でもあるそうです。
参道の門はお寺のようでありながらも、入った正面のほこらの屋根には猿が鎮座し(この猿は比叡山の反対の滋賀県にある日吉神社の神猿と言われています。日吉神社のある坂本もいいところなので紹介できれば…)、中には鏡が祀られています。ここは神社なの?
と、ちょっと風変わりな一画なのですが、本尊は陰陽道の祖とされる泰山府君(たいざんふくん)が赤山明神として一緒に祀られているためのようで、それを「かけ寄せの神」と言うのだそうです。
わたしには「何でもいいんだ?」としか思えないのですが、紅葉はキレイなところです(ピークを外した時期にしか見てませんが)。
人がくぐりながら祈祷する巨大な数珠が2つあります(アクリルのケースに入っている)。
ここでは数珠の供養が行われているそうです。この日は違うかも知れませんが、もうもうと何かを燃やした煙が境内に立ちこめていました。
巨大数珠の真ん中にぶら下がっている飾り物と昼間の月です。
何だか「いいちこ」のポスターみたいで気に入っています。
曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)(Map)
ここは比叡山延暦寺にあった坊(僧侶の住居)をこの地に移して寺としたそうで、天皇家にゆかりのある方が造営に尽力したそうです。
この地は比叡山の山麓という土地柄ゆえ、延暦寺系列の寺院が多かったと思われます。
京都に都を移した大きな理由である「奈良の仏教勢力」に対抗できる新しい信仰の確立のため、延暦寺の建立は政府主導で行われたわけですから天皇家との関係も深く、そんな時代の名残がこの地の性格を表しているのではないかと思われます。
近くに修学院離宮という現在も宮内庁の管理下に置かれる一画がありますが、そこは前述の経緯とは異なり、江戸時代に幕府が後水尾天皇のご機嫌取りに造営したそうです。
広大な庭園らしく、行ってみたいのですがチャンスが巡ってきません。
その「修学院離宮」と共に宮内庁管轄である「桂離宮」の見学は、期日・時間を限定した抽選になっており、これが当たらないんだ!
もう少しチャレンジしてみようとは思うのですが、ちょっともうあきらめ気分です……
何だか写真が「さて、これは何でしょう?」というクイズのような絵ばかりになってしまいすみません。
下写真は「春の月」です。って答えになってない?
ちょうど月齢が上弦の半月くらいなので、午後はちょうど光の加減がいい位置に上がっており(太陽の光を順光に受ける側の空にある)、ファインダーに入ってきます。
ここの門は砦のようにそびえ立ち、門前の並木が立派なケヤキなものですから、紅葉の季節の人出はもう大変です……
圓光寺(えんこうじ)(Map)
ここの起源は、家康が一般人も学ぶことが出来る学問所として伏見に開いたことによるそうです。
その後、相国寺(禅寺)内にあったものがこの地に移されたそうで、毎週日曜朝6時から坐禅会が開かれているのは、そんな系譜によるものと思われます。
教会の日曜礼拝に対抗して坐禅会があるというのは、どう考えても生活スタイルの模倣に思えますが、もし参加したとしたら、とりあえずその日曜日はすごく充実した休日を過ごせそうな気がします。
継続していくと、日々がそうなっていくのだろうとも思えますが、まずは早起きできるのかが最大の問題なのではないでしょうか。
でも、充実した生活を送るための日々の積み重ねって、そういうことなんだろうなぁ……
ここも紅葉がキレイで時期には大変な人出なのですが、本日は貸し切りでした。こんなにいい陽気なのにね。
最初の年にこの散歩道に3度来ており、最初は紅葉には時期が早かった、次は天気悪かったかで、結局いい写真は何も撮れなかったこと思い出されます。
起伏は多少ありますが、市内を見下ろす景色が気分のいい散歩道です。
詩仙堂(Map)
京都のモデルさんです。ええと、バイト代は……
ウソウソ、そんなところに座っているからファインダーに入っちゃうんだってば。
どちらもよけることは無理な状況ですので、無断で撮らせてもらいました。
この状況で「撮らせてください」と邪魔も出来ませんしね……
床の反射光が赤い服に当たって、毛せんの赤色を受けているように見えたもので。
ここの庭はいつ行っても庭を手入れする造園師の人がいてどこかしらを手入れしており、ものすごく庭の造形に神経を使っているお寺です。
丈山寺と言うそうですが、ずっと詩仙堂の名という認識しかなく、曹洞宗(永平寺)の禅寺の末寺であること、初めて知りました。
正式には「凹凸窠(おうとつか:でこぼこした場所に建てられた家)」と言うそうで、石川丈山が中国の詩人の絵と詩を掲げた「詩仙の間」からの由来だそうです。
昔の立派な別荘的家屋のひとまに、仏間をしつらえてあるとでも言うのでしょうか、お寺と言うよりは趣味人(文化人)の広い庭付き住居という印象です。
京都へ行けば、どこの庭からも「カーン」という鹿おどしの音が響いているもんだと思っておりましたが、実際はそう多くはありません。
その中でも、特に印象に残っているのがここ詩仙堂のもので、音量がとても大きく迫力があり、また頻繁に響いてきます。
それは当然のようで、鹿おどしは(趣味人)石川丈山が考案したものらしく正式には「僧都(そうず)」と言うのだそうです。
鹿や猪が庭を荒らすことを防ぐために考案したそうですが、畑の作物ではなく庭を守るためと言うところが、ちょっと浮き世離れしていると思われます。
でも、音の質としては「スカッ!」とすると言うのか「静寂を深めるため」との表現がまさに的確と思われる、心地よさを感じさせてくれます。
時計とは質の異なる時の流れを感じさせてくれる「精神清浄効果」が、自身の体内時計の進み方を再確認させてくれる、とでも言うのでしょうか、とても自然体にさせてくれリラックスできるのではないか、と思います。
この場に座した瞬間は、迫力ある「カーン」に耳を奪われるのですが、慣れてくると何やらもやもやと雑念が頭を巡りだしてきます。
それを見事に「ごはさんで願いましては」と「カーン」の音で、答えが出まいが間違っていようがリスタートを強制されます(ボクシングのゴングのように)。
それにまた慣れてくると次の「カーン」までの間に、ひとつのテーマを整理するようになってきます。
それが出来たらば次のテーマに取り組む、というような修行のような訓練にも使えるのでは、と思いました。
──そんなことに利用しようなんて、抑圧しすぎでしょうか?
雰囲気だけではなく、のんびりとでも頭の中でそんなことを繰り返していると「精神の静寂が深まる」と言いますか、頭の中がスッキリとしてくると実感するので、これだけで本一冊書けるのではないか? なんて思ったりするのですが……
でも心地いいですよ、是非!
日本家屋には、松や竹がよく似合います。
とくれば自然と「松竹梅」につながっていきますから、説明なんかされずともなるほどと納得出来てしまいます。
「ハルウララ」(競走馬)の名前じゃ勝てなくても仕方あるまい。
「春ウララ」(説明もはばかられるおバカな漫画のタイトルです。ご存知ないでしょうね)のノー天気な世界観も仕方あるまい。
そんな言葉の響きから伝わってくる緊張感の緩んだ空気にドップリと浸ることができました。
アレルギーの方には申し訳ありませんが、花粉症でないことに感謝です!
お気をつけ下さい……
【京都府】
赤山禅院(Map)
思考回路が停止したかのようなタイトルですが、そんな心地いいと感じられる「ほどよい陽気」とはまさにこのことかと、脳みその中まで緩んでいくようです……(冬が寒いからそう感じられるのでしょう)。
最高気温は15度程度でも、雲ひとつ無い青空からふりそそぐ日差しを浴びながら歩いていると汗ばんでくるほどです。
お彼岸前なのに「今年の春は足早で助かるなぁ」と思っていられたのは今や昔。「温暖化の影響だったら困るよなぁ」という不安を抱いてしまうのが現代に生きる者の「さが」と言えるかも知れません。
でもそれって、早い春の訪れは喜ぶのではなく、憂うべき季節感としてとらえろ言うこと?
冗談じゃございません。地面から緑が芽吹き、花が開き、鳥がさえずりはじめるわけですから、共に喜びたいに決まってるじゃありませんか。
そんな憂いを感じることなく、春を迎えられる地球環境でなければなりません。絶対に!
ここは比叡山延暦寺の別院なのですが、京都の表鬼門(東北の隅)を守護し、七福神の福禄寿のお寺でもあるそうです。
参道の門はお寺のようでありながらも、入った正面のほこらの屋根には猿が鎮座し(この猿は比叡山の反対の滋賀県にある日吉神社の神猿と言われています。日吉神社のある坂本もいいところなので紹介できれば…)、中には鏡が祀られています。ここは神社なの?
と、ちょっと風変わりな一画なのですが、本尊は陰陽道の祖とされる泰山府君(たいざんふくん)が赤山明神として一緒に祀られているためのようで、それを「かけ寄せの神」と言うのだそうです。
わたしには「何でもいいんだ?」としか思えないのですが、紅葉はキレイなところです(ピークを外した時期にしか見てませんが)。
人がくぐりながら祈祷する巨大な数珠が2つあります(アクリルのケースに入っている)。
ここでは数珠の供養が行われているそうです。この日は違うかも知れませんが、もうもうと何かを燃やした煙が境内に立ちこめていました。
巨大数珠の真ん中にぶら下がっている飾り物と昼間の月です。
何だか「いいちこ」のポスターみたいで気に入っています。
曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)(Map)
ここは比叡山延暦寺にあった坊(僧侶の住居)をこの地に移して寺としたそうで、天皇家にゆかりのある方が造営に尽力したそうです。
この地は比叡山の山麓という土地柄ゆえ、延暦寺系列の寺院が多かったと思われます。
京都に都を移した大きな理由である「奈良の仏教勢力」に対抗できる新しい信仰の確立のため、延暦寺の建立は政府主導で行われたわけですから天皇家との関係も深く、そんな時代の名残がこの地の性格を表しているのではないかと思われます。
近くに修学院離宮という現在も宮内庁の管理下に置かれる一画がありますが、そこは前述の経緯とは異なり、江戸時代に幕府が後水尾天皇のご機嫌取りに造営したそうです。
広大な庭園らしく、行ってみたいのですがチャンスが巡ってきません。
その「修学院離宮」と共に宮内庁管轄である「桂離宮」の見学は、期日・時間を限定した抽選になっており、これが当たらないんだ!
もう少しチャレンジしてみようとは思うのですが、ちょっともうあきらめ気分です……
何だか写真が「さて、これは何でしょう?」というクイズのような絵ばかりになってしまいすみません。
下写真は「春の月」です。って答えになってない?
ちょうど月齢が上弦の半月くらいなので、午後はちょうど光の加減がいい位置に上がっており(太陽の光を順光に受ける側の空にある)、ファインダーに入ってきます。
ここの門は砦のようにそびえ立ち、門前の並木が立派なケヤキなものですから、紅葉の季節の人出はもう大変です……
圓光寺(えんこうじ)(Map)
ここの起源は、家康が一般人も学ぶことが出来る学問所として伏見に開いたことによるそうです。
その後、相国寺(禅寺)内にあったものがこの地に移されたそうで、毎週日曜朝6時から坐禅会が開かれているのは、そんな系譜によるものと思われます。
教会の日曜礼拝に対抗して坐禅会があるというのは、どう考えても生活スタイルの模倣に思えますが、もし参加したとしたら、とりあえずその日曜日はすごく充実した休日を過ごせそうな気がします。
継続していくと、日々がそうなっていくのだろうとも思えますが、まずは早起きできるのかが最大の問題なのではないでしょうか。
でも、充実した生活を送るための日々の積み重ねって、そういうことなんだろうなぁ……
ここも紅葉がキレイで時期には大変な人出なのですが、本日は貸し切りでした。こんなにいい陽気なのにね。
最初の年にこの散歩道に3度来ており、最初は紅葉には時期が早かった、次は天気悪かったかで、結局いい写真は何も撮れなかったこと思い出されます。
起伏は多少ありますが、市内を見下ろす景色が気分のいい散歩道です。
詩仙堂(Map)
京都のモデルさんです。ええと、バイト代は……
ウソウソ、そんなところに座っているからファインダーに入っちゃうんだってば。
どちらもよけることは無理な状況ですので、無断で撮らせてもらいました。
この状況で「撮らせてください」と邪魔も出来ませんしね……
床の反射光が赤い服に当たって、毛せんの赤色を受けているように見えたもので。
ここの庭はいつ行っても庭を手入れする造園師の人がいてどこかしらを手入れしており、ものすごく庭の造形に神経を使っているお寺です。
丈山寺と言うそうですが、ずっと詩仙堂の名という認識しかなく、曹洞宗(永平寺)の禅寺の末寺であること、初めて知りました。
正式には「凹凸窠(おうとつか:でこぼこした場所に建てられた家)」と言うそうで、石川丈山が中国の詩人の絵と詩を掲げた「詩仙の間」からの由来だそうです。
昔の立派な別荘的家屋のひとまに、仏間をしつらえてあるとでも言うのでしょうか、お寺と言うよりは趣味人(文化人)の広い庭付き住居という印象です。
京都へ行けば、どこの庭からも「カーン」という鹿おどしの音が響いているもんだと思っておりましたが、実際はそう多くはありません。
その中でも、特に印象に残っているのがここ詩仙堂のもので、音量がとても大きく迫力があり、また頻繁に響いてきます。
それは当然のようで、鹿おどしは(趣味人)石川丈山が考案したものらしく正式には「僧都(そうず)」と言うのだそうです。
鹿や猪が庭を荒らすことを防ぐために考案したそうですが、畑の作物ではなく庭を守るためと言うところが、ちょっと浮き世離れしていると思われます。
でも、音の質としては「スカッ!」とすると言うのか「静寂を深めるため」との表現がまさに的確と思われる、心地よさを感じさせてくれます。
時計とは質の異なる時の流れを感じさせてくれる「精神清浄効果」が、自身の体内時計の進み方を再確認させてくれる、とでも言うのでしょうか、とても自然体にさせてくれリラックスできるのではないか、と思います。
この場に座した瞬間は、迫力ある「カーン」に耳を奪われるのですが、慣れてくると何やらもやもやと雑念が頭を巡りだしてきます。
それを見事に「ごはさんで願いましては」と「カーン」の音で、答えが出まいが間違っていようがリスタートを強制されます(ボクシングのゴングのように)。
それにまた慣れてくると次の「カーン」までの間に、ひとつのテーマを整理するようになってきます。
それが出来たらば次のテーマに取り組む、というような修行のような訓練にも使えるのでは、と思いました。
──そんなことに利用しようなんて、抑圧しすぎでしょうか?
雰囲気だけではなく、のんびりとでも頭の中でそんなことを繰り返していると「精神の静寂が深まる」と言いますか、頭の中がスッキリとしてくると実感するので、これだけで本一冊書けるのではないか? なんて思ったりするのですが……
でも心地いいですよ、是非!
日本家屋には、松や竹がよく似合います。
とくれば自然と「松竹梅」につながっていきますから、説明なんかされずともなるほどと納得出来てしまいます。
「ハルウララ」(競走馬)の名前じゃ勝てなくても仕方あるまい。
「春ウララ」(説明もはばかられるおバカな漫画のタイトルです。ご存知ないでしょうね)のノー天気な世界観も仕方あるまい。
そんな言葉の響きから伝わってくる緊張感の緩んだ空気にドップリと浸ることができました。
アレルギーの方には申し訳ありませんが、花粉症でないことに感謝です!
お気をつけ下さい……
2008/03/10
無常という概念──青連院門跡、知恩院、建仁寺
2008.3.8
【京都府】
青連院門跡(しょうれんいんもんぜき)(Map)
キターッ! 「スプリング ハズ カム」どすなぁ。
まさに本日、今年初めて「春の陽気」というものが感じられました。京都の最高気温12度だったそうですが、でも気持ちまで緩みました。
「ホー ホケキョ」は聞こえてきますし、太陽が旅人のコートを脱がせてしまい、脇に抱えている人も目立ちました。
気分は晴れやかなんですけどねぇ、また混雑する京都に戻るのかと思うと、ちょっと憂鬱でもあります。
以前もオススメしましたがここもとても好きな寺院で、陽気に誘われたせいか、はしゃいでパシャパシャ、シャッターを切っていました。
知恩院門前の道を北(平安神宮方面)へ歩くと、すぐ隣に突然現れる巨木群。「これはただごとではない」と立ち寄ったわたしでしたが、素通りする人の方が圧倒的に多く、中はガラガラでやりたい放題(?)の、とても落ち着ける場所です。
上写真は、その巨木の根です。枝振りも撮ったのですが、この写真以上に迫力が出ませんでした。これは実際に見てもらわないと伝わらないと思いますので、是非!
人の少なさがうかがえると思いますが、ここでお茶をいただくようです。
ホント日差しがポカポカで、ここで横になりたいと皆さん思われたことでしょう。
春の訪れを喜ぶってこういうことなんだろうなぁーと、芽吹き出す草花のように自分の皮膚もそれを感じ取って反応しているように思え、文字通り全身で季節感を味わっておりました。
この寺の起こりは、比叡山延暦寺に属する施設のひとつとして開かれ、鳥羽法皇の子孫が住職を務められ門跡寺院(天皇家がかかわった寺院)となったそうです。
概略の流れとしては理解していた、延暦寺の最澄(天台宗)のもとから巣立った知恩院の法然(浄土宗)、本願寺の親鸞(浄土真宗)を庇護していたのがこの寺(と言うか、天皇家の力)のようです。
それは隣接する、知恩院(浄土宗)との間に「本願寺誕生の地」(東・西共に浄土真宗)の石碑があることからも、うかがい知れます。
おそらく、その辺りが「東山文化」の発祥につながっていくのだと思われます。
東山山頂付近の「将軍塚 大日堂」が青蓮院の飛び地として残っているのは、平安(京都)遷都の記念碑的性格ゆえ(近くにある)門跡寺院に帰属させたい、という意志からのように思えます。
──こんなことが言えるようになったのかと、自分でも驚いています(少しは学習していたようです)。
ちょっとお寺の写真に、マンネリを感じはじめてきました。
どう打破するかと考えた時、画家が抽象画を描きたくなるように、心のおもむくままに撮りたい衝動に駆られるなんて言ったら、そりゃ言い過ぎですよね……
知恩院(Map)
デッカイんだ、この鐘。
「ゆく年、くる年」などでご覧になったことあると思いますが、この寺の名物ですよね。
知恩院にくると、一気に観光地モードに切り替わります(青蓮院門跡のすぐ隣なのにねぇ、と思ってしまいますが、信徒数も多いですから)。
確かに、三門もデッカイし「大きいことはいいことだ!」がコンセプト(これは東・西本願寺と同じ印象)なんですね? なんて言ったら怒られるよね。
いえいえ、このお寺好きなんですよ「大きいところが」……
これでは答えになってませんね。それはきっと、三門から山の中腹に広がる境内に登る石段の、一段の高さにあったりするのだと思います。
普通の石段は20cm程度ですが、その倍はあると思われるちょっとキツイ石段になっていて、おそらく祈願行為の一環との位置づけなのでしょう。そこを、杖を手にした老男・老女が途中で休みながらも挑もうとする姿勢に、この石段の存在意義を教えてもらっていると思えるからかも知れません。
ここの庭園の池はとても澄んだ水をたたえています。
東山の山麓にある土地柄か湧水に勢いがあるので、水面に波紋が広がっており、石庭の波紋が息吹を得たような情景にも見てとれます。
上記は変な表現(逆でしょと指摘されそう)だったかも知れませんが、万物は(途切れることなく)連鎖している、とのことを感じそれを表現しようとしたものです。
4千人も入れるという「御影堂(みえどう)」こそが最大の建造物で(と思われる)、全面の柱が四角であるのが珍しくて撮ってきましたが(普通は丸太ですよね)、その由緒については見つかりませんでした。
ちょうど新聞に「浄土宗も戦争関与に対する謝罪」とありました。
これは初めて耳にしたのですが、太平洋戦争中に軍に武器を寄付したり、大陸まで戦意高揚のための布教に行ったりしていたそうです。
浄土真宗の東・西本願寺にも同様のことがあったそうで、すでに謝罪をしていたそうです。
昔の系譜をつい最近まで受け継いでしまっていたようですが、これからは宗教法人らしい振る舞いをしてもらいたいと思うものの、そういう「血筋」があるように思えてしまう、などと書いたら、それこそ焼き討ちに遭いそうです……
延暦寺系統(個人的には武闘派的なイメージを持っているのですが)を非難する主旨ではなく、日本の仏教最大の宗派である浄土宗系(このくくりにも反論はあると思いますが)に息づいているのではと感じられることと、神道を背景にした自民党のやからが時折主張する、配慮に欠けた戦争を正当化する言動というものから想起される、日本人の中に潜在的に息づいている「日本人の血筋なのでは?」という危惧に対するものです。
神道と浄土真宗を足したら、心の支え(信仰)を持つ日本人の大半を占めてしまうわけですから、いざというときの「勢力」になり得ます。
どうも日本人は群れると酔い(心酔し)やすい体質のようにも思えるので(新興宗教も望み薄であるし)、無宗教という選択は自浄作用から生まれた自己防衛策なのかも知れない、などと思ったりもします……
八坂神社(Map)
脇を通り抜けるつもりだったのですが太陽光線の加減で、キンキラ光っていたので誘われてしまいました。
するとちょうど右写真の婚礼の行列に出くわしました。雅楽などが流れ、観光客にも祝福されて、なかなかいいもんですね。でもアングル逆だよね(奥さんを撮らないと)。
人は明るいモノに引かれること、納得です。
禅寺めぐりには、明るさがありませんから、神社のキンキラした装飾に思わず引かれてしまいましたが、北野天満宮、伏見稲荷など庶民の集まる神社はみな派手な飾りが施されています。
心の安らぎと、現実の生活とでは、求めるものが違うのはまぎれもない事実です。
確かに禅寺でお金に関してのお祈りなどしたら『喝!』と引っぱたかれて「顔を洗って出直してまいれ」などと言われそうですものね……
円山公園脇に「いもぼう」なる料理の看板がありました。
棒鱈(ぼうだら:タラの干し物)と海老芋(形が海老に似ている)の煮物だそうです。今度是非チャレンジしてみます。
右写真は祗園界隈。
建仁寺(Map)
「京都最古の禅寺」とパンフレットにあります。南禅寺 天授庵の項でも書きましたが、創建は古いのですが当初は天台・密教・禅の兼学で、禅宗の専門寺ではなかったそうです。
とは言え、鎌倉幕府の意向で栄西禅師が開山したそうなので、まさしく日本の禅のルーツであるようです。
最近変わってきた気がするのが「無情観」というものへの認識です。
これまで抱いていた「寂寥感」や「切ない気持ち」というイメージから感じられる温度の低さから、本来は体温と同程度の温度を持つものであり、そこにそれを見つめる己の思いが加わり、ほんのり暖かく感じられる「一体感」(目前で起きている事象を自己の中で昇華させる思い)のようなものがあるのでは、と思うようになってきました。
──ゴメンナサイ、こんな表現で伝わるのか本当に自信ありません……
そんな思いからか、わたしはこれまで「無常」と「無情」という概念を混同してとらえていたのでは、という気がしてきました。
無常とは:この世の中の一切のものは常に生滅流転(しょうめつるてん)して、永遠不変のものはないということ。人生のはかないこと。人の死。
無情とは:いつくしむ心がないこと。思いやりのないこと。精神や感情などの心の働きのないこと。
出典:インターネット 大辞泉より引用
また、無常観と無常感の違いについての記述も目にしました。
「無常観」
常:常にそのまま
無:常にそのままで無い、(すべてのものが)変化すること。われわれの体も時々刻々と変化し、最後に死んでいく。
「無常感」
人間や世間のはかなさ、頼りなさを情緒的、詠嘆的に表現しようとした日本的な美意識
出典:http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-bunnka5.htm より引用
本来的な意味と、これまで持ち続けていたイメージとを整理できたような気がしています。
そんな精神の体験からでしょうか、「無常」という概念がとても身近なものに思えるようになってきました。
ここはこれまでの禅寺とは違い祗園のすぐ裏手で、WINS(場外馬券売場)などがある繁華街に近い立地条件にあります。
庭園の縁側に腰掛けても、お寺の保育所があるのか子どもの声や、近所の工事の騒音などが耳に入ってきます。
これまでより人も多いので「落ち着けないなぁ」と思っていましたが、徐々に雑音が気にならなくなってくることを実感できました。
環境を言い訳にするのではなく、自身の「気の持ち方次第」であること、納得させられました。
少しは「分かってきた」のでは? という気分にはなったのですが、その成果やいかに?
──前回訪問時のコメントです。ちょっと恥ずかしいのですけど、変化を比較してみて下さい。
上写真は同心円だけの模様ですが、ここには潜岩(水中に潜んでいて水面からは存在を認められない岩:目に見えぬものからも波は立つ)があるとの意味ではないか、と解釈したのですが…… それにしてもどうやって描いたのでしょう?
ここの石庭の模様は、写実ではなく象徴的な記号のように描かれています。頓知問答で使われてもきちんとした答えが導き出せるような、洗練されたアイコンになっていると思います。
それはひとつの「文化」だと思います。ここ建仁寺ではその「サイン」に気がついて、ひもとくことでその文化の存在を認識できたと思います。これまでの禅寺にもそれぞれ「独自の文化」があったのだと思われますが、素通りしてきてしまいました……
3周目には、もう一歩踏み込んだ深さの理解を目指したいと思っています。
禅寺めぐりは今回で終了です、お付き合いありがとうございました。
京都の印象を書くにあたり「禅宗」と「無常観」に言及せずには、単なる「京都ステキ!」的な感想文になってしまうと思っていたので、何とか触れられて、ホッとしています。
──東福寺が入ってないじゃないか? の声もおありでしょうが、紅葉時の人の波の印象が尾を引いているようでどうも食指が伸びず、ほとぼりが冷めてからまた行きます。
明るい季節になりましたので、これからは内容も明るくしていきたいと思っています。
「京都ひとり旅」ってこんなイメージなんでしょ?
でも、これ結構な距離から撮ったのですが、すれ違いざま「わたしを撮ったでしょ!?」って目で見られました。
こんなんでめげていては、何も撮れないのかも知れませんが、ほどほどにと思います……
「京都モデル」募集! したいなぁ〜。
【京都府】
青連院門跡(しょうれんいんもんぜき)(Map)
キターッ! 「スプリング ハズ カム」どすなぁ。
まさに本日、今年初めて「春の陽気」というものが感じられました。京都の最高気温12度だったそうですが、でも気持ちまで緩みました。
「ホー ホケキョ」は聞こえてきますし、太陽が旅人のコートを脱がせてしまい、脇に抱えている人も目立ちました。
気分は晴れやかなんですけどねぇ、また混雑する京都に戻るのかと思うと、ちょっと憂鬱でもあります。
以前もオススメしましたがここもとても好きな寺院で、陽気に誘われたせいか、はしゃいでパシャパシャ、シャッターを切っていました。
知恩院門前の道を北(平安神宮方面)へ歩くと、すぐ隣に突然現れる巨木群。「これはただごとではない」と立ち寄ったわたしでしたが、素通りする人の方が圧倒的に多く、中はガラガラでやりたい放題(?)の、とても落ち着ける場所です。
上写真は、その巨木の根です。枝振りも撮ったのですが、この写真以上に迫力が出ませんでした。これは実際に見てもらわないと伝わらないと思いますので、是非!
人の少なさがうかがえると思いますが、ここでお茶をいただくようです。
ホント日差しがポカポカで、ここで横になりたいと皆さん思われたことでしょう。
春の訪れを喜ぶってこういうことなんだろうなぁーと、芽吹き出す草花のように自分の皮膚もそれを感じ取って反応しているように思え、文字通り全身で季節感を味わっておりました。
この寺の起こりは、比叡山延暦寺に属する施設のひとつとして開かれ、鳥羽法皇の子孫が住職を務められ門跡寺院(天皇家がかかわった寺院)となったそうです。
概略の流れとしては理解していた、延暦寺の最澄(天台宗)のもとから巣立った知恩院の法然(浄土宗)、本願寺の親鸞(浄土真宗)を庇護していたのがこの寺(と言うか、天皇家の力)のようです。
それは隣接する、知恩院(浄土宗)との間に「本願寺誕生の地」(東・西共に浄土真宗)の石碑があることからも、うかがい知れます。
おそらく、その辺りが「東山文化」の発祥につながっていくのだと思われます。
東山山頂付近の「将軍塚 大日堂」が青蓮院の飛び地として残っているのは、平安(京都)遷都の記念碑的性格ゆえ(近くにある)門跡寺院に帰属させたい、という意志からのように思えます。
──こんなことが言えるようになったのかと、自分でも驚いています(少しは学習していたようです)。
ちょっとお寺の写真に、マンネリを感じはじめてきました。
どう打破するかと考えた時、画家が抽象画を描きたくなるように、心のおもむくままに撮りたい衝動に駆られるなんて言ったら、そりゃ言い過ぎですよね……
知恩院(Map)
デッカイんだ、この鐘。
「ゆく年、くる年」などでご覧になったことあると思いますが、この寺の名物ですよね。
知恩院にくると、一気に観光地モードに切り替わります(青蓮院門跡のすぐ隣なのにねぇ、と思ってしまいますが、信徒数も多いですから)。
確かに、三門もデッカイし「大きいことはいいことだ!」がコンセプト(これは東・西本願寺と同じ印象)なんですね? なんて言ったら怒られるよね。
いえいえ、このお寺好きなんですよ「大きいところが」……
これでは答えになってませんね。それはきっと、三門から山の中腹に広がる境内に登る石段の、一段の高さにあったりするのだと思います。
普通の石段は20cm程度ですが、その倍はあると思われるちょっとキツイ石段になっていて、おそらく祈願行為の一環との位置づけなのでしょう。そこを、杖を手にした老男・老女が途中で休みながらも挑もうとする姿勢に、この石段の存在意義を教えてもらっていると思えるからかも知れません。
ここの庭園の池はとても澄んだ水をたたえています。
東山の山麓にある土地柄か湧水に勢いがあるので、水面に波紋が広がっており、石庭の波紋が息吹を得たような情景にも見てとれます。
上記は変な表現(逆でしょと指摘されそう)だったかも知れませんが、万物は(途切れることなく)連鎖している、とのことを感じそれを表現しようとしたものです。
4千人も入れるという「御影堂(みえどう)」こそが最大の建造物で(と思われる)、全面の柱が四角であるのが珍しくて撮ってきましたが(普通は丸太ですよね)、その由緒については見つかりませんでした。
ちょうど新聞に「浄土宗も戦争関与に対する謝罪」とありました。
これは初めて耳にしたのですが、太平洋戦争中に軍に武器を寄付したり、大陸まで戦意高揚のための布教に行ったりしていたそうです。
浄土真宗の東・西本願寺にも同様のことがあったそうで、すでに謝罪をしていたそうです。
昔の系譜をつい最近まで受け継いでしまっていたようですが、これからは宗教法人らしい振る舞いをしてもらいたいと思うものの、そういう「血筋」があるように思えてしまう、などと書いたら、それこそ焼き討ちに遭いそうです……
延暦寺系統(個人的には武闘派的なイメージを持っているのですが)を非難する主旨ではなく、日本の仏教最大の宗派である浄土宗系(このくくりにも反論はあると思いますが)に息づいているのではと感じられることと、神道を背景にした自民党のやからが時折主張する、配慮に欠けた戦争を正当化する言動というものから想起される、日本人の中に潜在的に息づいている「日本人の血筋なのでは?」という危惧に対するものです。
神道と浄土真宗を足したら、心の支え(信仰)を持つ日本人の大半を占めてしまうわけですから、いざというときの「勢力」になり得ます。
どうも日本人は群れると酔い(心酔し)やすい体質のようにも思えるので(新興宗教も望み薄であるし)、無宗教という選択は自浄作用から生まれた自己防衛策なのかも知れない、などと思ったりもします……
八坂神社(Map)
脇を通り抜けるつもりだったのですが太陽光線の加減で、キンキラ光っていたので誘われてしまいました。
するとちょうど右写真の婚礼の行列に出くわしました。雅楽などが流れ、観光客にも祝福されて、なかなかいいもんですね。でもアングル逆だよね(奥さんを撮らないと)。
人は明るいモノに引かれること、納得です。
禅寺めぐりには、明るさがありませんから、神社のキンキラした装飾に思わず引かれてしまいましたが、北野天満宮、伏見稲荷など庶民の集まる神社はみな派手な飾りが施されています。
心の安らぎと、現実の生活とでは、求めるものが違うのはまぎれもない事実です。
確かに禅寺でお金に関してのお祈りなどしたら『喝!』と引っぱたかれて「顔を洗って出直してまいれ」などと言われそうですものね……
円山公園脇に「いもぼう」なる料理の看板がありました。
棒鱈(ぼうだら:タラの干し物)と海老芋(形が海老に似ている)の煮物だそうです。今度是非チャレンジしてみます。
右写真は祗園界隈。
建仁寺(Map)
「京都最古の禅寺」とパンフレットにあります。南禅寺 天授庵の項でも書きましたが、創建は古いのですが当初は天台・密教・禅の兼学で、禅宗の専門寺ではなかったそうです。
とは言え、鎌倉幕府の意向で栄西禅師が開山したそうなので、まさしく日本の禅のルーツであるようです。
最近変わってきた気がするのが「無情観」というものへの認識です。
これまで抱いていた「寂寥感」や「切ない気持ち」というイメージから感じられる温度の低さから、本来は体温と同程度の温度を持つものであり、そこにそれを見つめる己の思いが加わり、ほんのり暖かく感じられる「一体感」(目前で起きている事象を自己の中で昇華させる思い)のようなものがあるのでは、と思うようになってきました。
──ゴメンナサイ、こんな表現で伝わるのか本当に自信ありません……
そんな思いからか、わたしはこれまで「無常」と「無情」という概念を混同してとらえていたのでは、という気がしてきました。
無常とは:この世の中の一切のものは常に生滅流転(しょうめつるてん)して、永遠不変のものはないということ。人生のはかないこと。人の死。
無情とは:いつくしむ心がないこと。思いやりのないこと。精神や感情などの心の働きのないこと。
出典:インターネット 大辞泉より引用
また、無常観と無常感の違いについての記述も目にしました。
「無常観」
常:常にそのまま
無:常にそのままで無い、(すべてのものが)変化すること。われわれの体も時々刻々と変化し、最後に死んでいく。
「無常感」
人間や世間のはかなさ、頼りなさを情緒的、詠嘆的に表現しようとした日本的な美意識
出典:http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-bunnka5.htm より引用
本来的な意味と、これまで持ち続けていたイメージとを整理できたような気がしています。
そんな精神の体験からでしょうか、「無常」という概念がとても身近なものに思えるようになってきました。
ここはこれまでの禅寺とは違い祗園のすぐ裏手で、WINS(場外馬券売場)などがある繁華街に近い立地条件にあります。
庭園の縁側に腰掛けても、お寺の保育所があるのか子どもの声や、近所の工事の騒音などが耳に入ってきます。
これまでより人も多いので「落ち着けないなぁ」と思っていましたが、徐々に雑音が気にならなくなってくることを実感できました。
環境を言い訳にするのではなく、自身の「気の持ち方次第」であること、納得させられました。
少しは「分かってきた」のでは? という気分にはなったのですが、その成果やいかに?
──前回訪問時のコメントです。ちょっと恥ずかしいのですけど、変化を比較してみて下さい。
上写真は同心円だけの模様ですが、ここには潜岩(水中に潜んでいて水面からは存在を認められない岩:目に見えぬものからも波は立つ)があるとの意味ではないか、と解釈したのですが…… それにしてもどうやって描いたのでしょう?
ここの石庭の模様は、写実ではなく象徴的な記号のように描かれています。頓知問答で使われてもきちんとした答えが導き出せるような、洗練されたアイコンになっていると思います。
それはひとつの「文化」だと思います。ここ建仁寺ではその「サイン」に気がついて、ひもとくことでその文化の存在を認識できたと思います。これまでの禅寺にもそれぞれ「独自の文化」があったのだと思われますが、素通りしてきてしまいました……
3周目には、もう一歩踏み込んだ深さの理解を目指したいと思っています。
禅寺めぐりは今回で終了です、お付き合いありがとうございました。
京都の印象を書くにあたり「禅宗」と「無常観」に言及せずには、単なる「京都ステキ!」的な感想文になってしまうと思っていたので、何とか触れられて、ホッとしています。
──東福寺が入ってないじゃないか? の声もおありでしょうが、紅葉時の人の波の印象が尾を引いているようでどうも食指が伸びず、ほとぼりが冷めてからまた行きます。
明るい季節になりましたので、これからは内容も明るくしていきたいと思っています。
「京都ひとり旅」ってこんなイメージなんでしょ?
でも、これ結構な距離から撮ったのですが、すれ違いざま「わたしを撮ったでしょ!?」って目で見られました。
こんなんでめげていては、何も撮れないのかも知れませんが、ほどほどにと思います……
「京都モデル」募集! したいなぁ〜。
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