2007/02/24

時代の波と戦う「西の陣」

2007.02.24
 西陣界隈(Map)—京都府



 本日歩いたのは、東は堀川通、西は千本通、南は丸太町通、北は今出川通に囲まれた界隈です。碁盤の目のように仕切られた町を「あみだくじ」のように、行きつ戻りつ歩き回っておりました。
 自分としては、カメラを抱え狭い路地をキョロキョロ、ウロウロするのが楽しくて仕方ないのですが、近所の人には「怪しい人物」に映るかも知れないと思うと、妙な動作をしているような気がしてきてしまいます。
 これでは余計に怪しまれると感じたのは、ビラ配りのおじさんと違う場所で4回も遭遇してしまったからでしょう。
 西陣界隈も、前述の四方の大通り周辺から再開発がすすんでおり、いずれ高い建物の城壁に囲まれた町になってしまいそうな印象があります。
 中心街に近い南側が特に、新しい町並みに置き換わっているようです。
 その内側では町家の特徴である、狭い間口と奥行きのある空き地が散見されます。そんな空き地3軒分くらいの土地に、通りから各戸の玄関に面した袋小路を引き込み、道を囲んで3階建ての家がコの字型に肩を並べたような、小規模な再開発区画が目につきました。
 そんな路地に日が差す時間は限られています。その暗い袋小路で、子どもたちがボール遊びをしている姿に「こんな暗くて狭い場所で遊んでて楽しいのだろうか?」と首をかしげてしまいました。
 その暗さには、自然光の取り込みに腐心していた町家の暗さとは意味が違う、ビジョンの乏しさを感じてしまい、少々ショックを受けました。
 古いものは残さねばならない、とばかりは思いませんが、金銭的な感覚だけの「土地の有効活用?」には疑問を感じました。
 「西の陣」(地名の由来:応仁の乱の西軍陣地)として戦うべきではないか、と思いました。相手にはきっと「東の都」も含まれるのでしょうし、お金を崇拝する社会が相手かも知れません。
 守れなくなった文化は、もはや文化ではなく、過去の遺物でしかない、などと考えてしまっていいのだろうか……
 守るためにはお金がいる。持ち主は、それ以前にお金がいるから売りに出す。庶民の家程度の建物には、自治体は手をさしのべてくれない、という現実。しかし、近ごろの世間はその大切さを理解しているのではないだろうか、と思えるのです。
 文化とは、一人で出来るものでもなければ、財力を持つ有力者がお金を掛けても実現できるものではない、ということを。地域を構成する個人個人が、助け合いながら生活を共にすることで、はぐくまれていくものであることを。
 そして、物質的には十分豊かになった社会で、富ではない豊かさを感じられることが身近にあることに、気付きはじめているのではないか、と思えるのです。
 手を差しのべること、協力すること。そんな表現が高圧的で嫌いなら「行動すること」。
 世の中はその意味に気付きはじめていると思うのは、楽観的に過ぎるだろうか……

明るい「結界」──晴明神社

2007.02.24
 晴明神社(Map)—京都府

 神社の見解によれば「晴明公にお祈りすれば、不思議な霊の利益を受ける事ができ、様々な災いから身を守り、病気や怪我が治る…」のだそうです。
 残された史料から察するところ、当時の活躍ぶりからも「京に晴明あり」とのスーパースターぶりはうかがえます。当時の時代背景(京で不幸な出来事が多発した時節)なのでしょうが、「悪霊退治」のヒーローに祭り上げたい気持ちも分からないではありません。
 また、近ごろの「陰陽師」ブームも、脚色は多少大げさであったとしても歴史的ロマンをかき立ててくれて、「史実再発掘」的な貢献があった印象が強く、非常に好感を持っていました(誰も、そんな昔のことを「誇大表現」などと文句は言わないでしょうから)。
 そんな小道具としての「式神(しきがみ)」(陰陽師の意のままに動く鬼神)だったり、「一条戻橋」(あの世とこの世をつなぐとされる)も、抵抗無く受け入れられました。(下の写真)
 それにしても、いまだに人気が高いことには驚かされました。社務所の看板に「現在、相談受付は3時間待ちです」の張り紙と、その玄関に並んだ下足の数。「陰陽師」とは占い師と考えれば、その人気ぶりにもうなずけます。(女性が多かったし…)
 だからでしょうか、すぐ隣に「陰陽師オリジナルグッズ」のみやげもの店などがあり、とても明るい雰囲気だったのが少しイメージと違いました(陰陽師は、世間を明るくするための存在ですものね)。
 近所の軒先には「 晴明神社」のお札がはられていて「これが結界になっているのかも」と、神社を離れてからその威厳を思い知らされました。
 魔物はきっと「結界」の中には入れません。試してみてはいかがですか?
 わたしは、大丈夫でした。

2007/02/18

古い映画館もまだ現役──西陣(千本通周辺)

2007.02.18
 西陣─千本通周辺(Map)—京都府


 京都に通い始めの頃、高雄行きバスの車窓から「二条を過ぎた辺りから建物が低くなった」との印象を受け、それが西陣あたりであると知り「やっぱり違うぞ!」と、期待を高めておりました。
 西陣という響きには「織物」「町家の工場」という印象があり(70年代の映画『西陣心中』の印象も強いが、その影響は字面かも)、わたしの中では強く引かれる場所でありました。
 ひもといてしまうと、応仁の乱で西軍の陣地だったことが由来だそうです。(何とロマンのないことか……)
 本日は特に目的地を持たず、「西陣」と言われるあたりの西側を入門編としてブラブラしておりました。
 小さなお寺が軒を連ねる界隈、お日がらなのかお坊さんとよくすれ違いました。地域に密着した存在なのでしょう。そんな路地には、小さなほこらに奉られたお地蔵さんがそこかしこに。いわれは不明ですが、みんな綺麗な化粧を施されており、人々に大切にされていることがうかがえます。
 平安時代の内裏があった場所だそうですが、長屋的な古い建物も多く、政治の中枢機関が去った後には廃れた時期があったのかも知れません。「百鬼夜行」(妖怪や魑魅魍魎が、深夜に一条通を行進したとのこと)をモチーフにした「妖怪ストリート」なる通りもありました。だから人々は、土地の霊(不幸)に大切に接するのかも知れません。
 後で知りましたが、ひとブロック東に「(安倍)晴明神社」があるそうです。そんな関連があった土地なのかも知れません。そんな話題については、訪問予定の次回ということに……

 上は普通の民家と思われる家の写真ですが、中央右寄りに折りたたんだ「ちゃぶ台の足」のようなものが見えると思いますが、あれを開くときっと縁側になるのだと思います。狭い軒先でも、夏にはそこで夕涼みしながらご近所と談笑するのでしょう。粋だよねぇ。


 さすが京都には古いものが残されている(と言うか、生き残っている)と関心させられます。
 古い映画館というものは、人々の「垢(あか)」と言うのか、思いが染みこんでいるような印象があって、どの街に残された映画館でもそれぞれのいい雰囲気があると思います。
 ここもまだ立派な現役です。さっき、おじさんが入っていきました。

2007/02/03

迷わせて救う?

2007.02.03
 妙心寺—京都府

 迷路のようなお寺の長屋で、さまよい歩きながらそれぞれのお寺で拝観料を払い、様々な祈りを体感させてもらったおかげで、苦悩は軽くなった気がしましたが、お金は確実になくなりました……
 そして、たどり着いた本堂で「ゴーン!」っと。
 別に、批判しようとするものではありません。でも、歩き疲れちゃいました。

※写真は2点とも妙心寺。





 本日は節分。
 晩にちょうど通りがかり、にぎやかさに吸い寄せられ壬生寺へ。
 ここでは「ほうらく」という素焼きのお皿に願いを書いて奉納するようで、一人で何枚も奉納する人の姿もめずらしくありません。
 たまたま時節の行事をのぞけることができてラッキーでした。
 なぜ晩の京都を歩いていたかと言うと、今流行の「温浴施設」(温泉からお湯を運んで湧かし直す)で汗を流していたからです。
 わたしとしては、もうこれで京都散歩のメニューは完璧! 次は、桂にあるらしい自前温泉の施設を目指します。
 ちなみに関西での節分のしきたり「恵方巻」は食べませんでした。
 東京では食べやすいようなアレンジがしてあったので、一度短いヤツを食べましたがこちらは本場です。
 何だか、遠慮無く甘そうだし大きいし、勇気がありませんでした……

水のない池

2007.02.03
 広沢池—京都府


 冬場は水を抜いて魚を捕獲するとテレビで見ましたが、抜きっぱなしなんですね。今は完全に(昔から?)、鯉や鮒の養殖用の池みたいです。
 写真の背後、数百メートルの場所に大覚寺の大沢池があるのですが両方とも人工池で、その立地も盆地の北側にあり田園の中(京都にもいい風景あるんだ)なので南側が開けています。観月の名所と言われていますが、月を水面に映したかったから池を作ったのではないかと思うと(推測ですが)、かりだされた人足の気持ちを聞いてみたい気がしてきます。
 でも、きっとここで見る月は綺麗だろうと想像されます。

逢いたかった

2007.02.03
 広隆寺—京都府


 国宝第一号 弥勒菩薩半跏思惟像。渡来像であれ(百済伝来)、この像を機に国内の仏教美術が歩み始めたであろうことが理解できるような、素朴で穏やかな気持ちにさせてくれる像である。
 「アルカイックスマイル」という言葉を初めて耳にしたのは、中学の社会の授業でした。結構メリハリのしっかりした容姿の女性の先生で男子生徒には人気のある先生が、思いの丈を語るように切々と教科書の写真を指して「この薬指が…」「この右腕が…」と身振り手振りで語っていてことがとても印象的で、この歳まで引きずっておったという次第です。
 逢えてよかったと思う反面、また一つ目標が無くなってしまったという寂しさを感じているのって(喜び<喪失感)、もう完全にオヤジ……
 館内は照明が暗く、近よれず、撮影禁止なので、この写真の方が雰囲気伝わると思います。
 もう一言。聖徳太子建立(603年)ということで、京都最古のお寺だそうです。行ってみれば確かに、京都の中に奈良があるというような「時間の流れの違い(時空の歪み)」を感じさせる場所で、それを体験してみるのも一興かと思います。

2007/02/02

地域密着こそ、ひとつの「道」

2007.01.27
 松尾大社—京都府


 701年に造営された京都最古の神社だそうです。
 さて、上賀茂神社、下鴨神社とどっちが古いのか、ちょっと調べてみようと思ったり、出雲大社や伊勢神宮っていつ頃できたのか、何だか久しぶりに神社に対して興味を感じました。
 と言うのも、祈祷に訪れる人が大勢ではないが入れかわり立ちかわり来ていたり、結婚式に参加すると思われる一行とすれ違ったりと、非常に庶民の生活に密着している印象があり、京都だと北野天満宮、目黒だとお不動さんに通ずるものが響いてきたのだと思います。
 奉納されている酒樽を見て「伏見の酒」ってあったなあ、などと飲んべえにあるまじき反応をしましたが、いま飲んでるのは焼酎の「いいちこ」なんです。ごめんなさい……

本日はその間に
苔寺(西芳寺)──参拝には予約が必要だそうです(観光公害に対する地元への配慮)。知りませんでした…… 要再訪!
華厳寺(鈴虫寺)──拝観の時間は、お坊さんのスケジュールで決められているようです。もう来ない。
などもありました。

若き京都人たち

2007.01.20
 清涼寺(嵯峨釈迦堂)—京都府


 とても立派でりんとした修行寺らしいたたずまいで、吉野山の蔵王堂を思い出しました。
 境内の舞台で狂言のけいこに励む子どもたちの姿に出会いました。
 子どものころから近所のお寺の行事に参加する、そんな機会が引き継がれることで文化が守られてきたのだと思います。
 目の前で練習する姿も、歴史の一部なのでしょう。
 そんなこと気にせず(当人たちには全然意識してないと思うが)晴れの舞台を目指せ、若き京都人たち!
 ここで感じたのは、「晴れ」と「け」の実感を正月や冠婚葬祭からしか感じられなかった東京圏での生活を見直せたらうれしい、というものです。でも、サラリーマン生活では難しいのだろうなあと、思ってしまうのは「それは単なる願望に過ぎないから?」「いや、言い訳だ!」と問われれば、後者という気がしてしまいます。

窓は、希望の扉?

2007.01.20
 祇王寺—京都府

 こぢんまりとしているが、とても落ち着きのある一角で、元は尼寺だったそうです(今も?)。
 わたしのとぼしい表現力では「しぶい」「落ち着きのある」としか出てこないのですが、ちゃんとした庭(広くはない)があっても、理由があってここに閉じこめられた女性にはとても窮屈だったのかも知れません。
 この窓の説明に「吉野窓」とあったので、以前の源光庵「悟りの窓」のような固有の名称かと思いきや、吉野太夫という芸妓さんが好んだ丸窓の総称なのだそうです。
 以前訪れた常照寺で太夫の墓を見た時の印象は「吉野太夫? ちと縁遠い方の気がする」でしたが、何度も出てくる名前のようなので知識として入れとかないといけませんね。
 近くにある「小倉山」の看板に「あっ、そう」の反応。「小倉餡(あん)発祥の地」の碑に「へぇ」でしたが、それよりも「小倉百人一首」こそ連想すべきなのにと。オヤジの年頃でもピンと来ない時代になってきたなどと、言い訳がましいなあ。
 思い出したのが、坊主めくりの「うわぁ、蝉丸だぁー!」ではねぇ……

一度でいいから……

2006.12.30
 祗園—京都府


 銀閣寺の脇を流れてきた白川は、動物園付近でいったん琵琶湖疏水(水力発電のための琵琶湖からの導水)と合流し、そこから分かれて祗園に流れていきます。
 そう、何とあの憧れの祗園を流れている水は琵琶湖の水なんです!
 「へぇ」ボタンすら押せぬほどの脱力感を覚えた方、ご同情申し上げます。
 琵琶湖疏水から分かれた白川は、最初は両岸の建物が流れに沿うように並ぶ姿に生活感を感じさせますが、祇園に入ると一気に歓楽街の華やかさに包まれます。
 そんな風情を楽しみながらゆったりと(?)男なら一度は! という願望を持ちますが、それが落とし穴なのでしょう。
 その裏路地に連なる歓楽街には庶民向けの憂さ晴らしの場が用意されていて、ほとんどの同士たちはそこでくだを巻いていたことと思われます。
 今も昔も変わらないであろうその構図に、活力の源とそのむなしさの表裏関係が永遠の命題であることを思い知らされ、凡人の悟りというモノは最期にしか理解できないものなのかも知れない、と思わされました。
 でも「わかっちゃいるけど、やめられない!」から、街は生き生きと活力を保っているのだと思う。「これホント!」自信を持って……

無印の場所

2006.12.30
 青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)—京都府


 日も暮れそうだし急がねばと早足で「立派なたたずまいだなぁ」と脇見しながら歩きつつ、白壁も途切れたし、さぁ! と思った瞬間、その奧にたたずむ門構えに思わず立ち止まってしまいました。
 自分の中では無印でしたが「ここを見ずして!」と、吸い込まれるように門をくぐりました。
 門跡寺院とは、天皇の出家先等の寺院で荘園を持っていたので、曼殊院(まんしゅいん)門跡(再訪時に紹介します)同様立派なのは当たり前なんでしょうけど、規模としては程ほどな程度に残っている風情がいいのでしょう。
 わたしとしては「拾いモノ」的な印象で(失礼!)、とても落ち着く場所なのにゆっくりできなかったこともあり、また訪れたい場所です。
 その後、参道の入り口付近を歩いたのですが、白川ほとりの門から立派な参道が続いていました(現在車道)。