2007/09/29

デモと一揆の境界線──旧山科本願寺一帯

2007.09.29
【京都府】

 旧山科本願寺一帯(Map)


 京都を歩いていると(日本全国くまなく歩いたとしても結論は一緒だと思うが)どうしても最多の信徒数を誇る「浄土真宗」(一向宗という呼び名には諸説あるようです)に接する機会が多くなります。
 これまで良く言うことが無かったことを反省して(?)、これもまた京都を歩いて目にする機会の増えた本願寺第八世である「蓮如」(れんにょ)という人を切り口に浄土真宗をちゃんと考えてみよう、という企画を考えていたのですがどうも思惑のようには……(上写真は蓮如御廟所)
 蓮如という人は浄土真宗の開祖である親鸞の教えを、庶民にも分かりやすくかみ砕いた表現で布教することにより受け入れられ、人々の心をつかむことにたけた人物だったそうです。
 しかしその時まさに、京都の町を焼き尽くす応仁の乱直前という不安定な時代背景にあったせいもあり、完全に宗教界も政治抗争に巻き込まれてしまい、純粋な布教活動など行えない時代であったようです。
 過酷な生活環境の中で庶民たちは蓮如の教えにすがるように救いを求め、数が増えてきたあたりでそれは生活の安定を求めた民衆運動につながり、それがやがてクーデターに発展してしまいます(当時はそんなことはどこでも日常的に起こるような状況と思えます)。
 その一向一揆自体が大きな勢力となり収拾がつかなくなり、彼ら自身が宗教戦争の先方に立つようになってしまい、国を混乱に陥れてしまうという状況であったことが、彼らにとって不幸な時代であったと言えるのかも知れません。
 さて現代に目を向けても、そんな宗派間対立から日々自爆テロによって血を流し合っている狂信者たちがいます。
 彼らにとって現代とは、不幸な時代だったと振り返られるものなのだろうか? これまでも繰り返されてきたように思えてしまうのだが、彼らの歴史観を計るタイムテーブルの尺度はわれわれとは異なる長さをもっているのだろうか?
 わたしとしては、早期に終わらせるべきだと思うし、繰り返されないことを願うしかありません。
 「根本的な宗教観が異なっているのだ」と言われればそれ以上何も言えませんが、戦うためのシンボルとして「教え」があるわけではない事だけは、確かだと思います。
 話しを戻します。
 そんな時代においても一向一揆の武装蜂起に反対だった蓮如は、山科に本願寺を建立し「さながら仏国の如し」とうたわれる理想郷の創設に力を注ぎ、一時そのように評される仏教都市を築いたのだそうです。
 しかし蓮如が没し次の世代になると時代の流れには逆らえず、周囲に堀と土塁を築いた城郭都市として信徒を守ることに注力せざるを得なかったようです。
 しかし城郭を備えるということは外部と対立しているということですし、戦国時代に突入するという時節においては、世間から無関係でいられたはずもありません。
 日蓮宗徒、比叡山僧徒に滅ぼされたとありますが、それはそれぞれの宗派を支援する武将の先鋒とされた代理戦争的なものではなかったかと思われます。
 その時代の宗派という存在は、民衆のよりどころでありながらも、武将たちの駒のひとつとして扱われていたようにも思える面があり、まさに受難の時代だった言えると思います。
 そんな中で「さながら仏国の如し」という、自主独立した自治国を目指そうとした蓮如という人が今でも愛され、京都の町で接する機会が多いということにとても共感できる思いがしました。
 その後、山科を追われた本願寺門徒は石山本願寺(現大阪城)に移り、信長の全国統一の際の目の上のたんこぶとしても名をはせることになります。

 デモであれ、一揆であれ、ことの始まりは悪政を庶民に押しつけるばかりで実勢を何も顧みないお上への抗議行動から始まっていると思われます。
 ミャンマーではそれがデモ行動となり、庶民の希求に賛同した(と思われる)僧侶たちが加わった非武装の大規模なデモに発展していきました(沖縄では、教科書記述問題への抗議集会に11万人集まりました)。
 抗議行動を起こすこと、それが大規模なデモに発展していくことに対しては、何を言える立場でもありません。
 ただ、それを武力で押さえつけようとする姿勢には異を唱えることができます。
 ミャンマーでも民主化へのクーデターを起こすべきだとは言いませんが、その引き金ってどこにあるのでしょうか?
 現代でしたら、諸外国・国際世論からの圧力だったり、われわれのような各国からの民意の高まりであったりするのかも知れません。
 それは、きっと堰を切ったら何人も止められるものではないのでしょう。
 きっと当時の蓮如もそんな苦悩を味わったのではないでしょうか……


 ──上の写真は、その土塁が残る山科中央公園(右側の山と言うか、高台)。


 上が現在の「東」本願寺山科別院。
 右は「西」本願寺山科別院の開かずの門(?)。新しくないと思われるバイクの残骸が放置されている雰囲気に「現代の羅生門か?」とも思いました。
 京都盆地から東山に隔てられたこの地では(電車だと東山トンネルを抜けた場所ですが、ここも京都市の山科区で市営地下鉄も通っています)、洛中の建造物に比べるとどちらも力が入っているとは思えません。
 お互いに単なる意地の張り合いをしているようにしか見えず「だから何でここでも、東と西なのよ?」って思います。
 本願寺の東西への分離をうながしたのが、その勢力を弱めたいと策を練った家康だと言いますから、さすがタヌキ親父! という印象です。
 でまた理解できないのが、明治時代に名字が必要になった時、両本願寺とも宗祖である親鸞が祀られている大谷の地名から名字をもらい、双方とも伯爵の地位を授かっても体質が変わらなかった、ということです(教えの本質には関わりのないことではありますが)。
 「宗派の歴史は、そう簡単には変えられるものではない」などのお叱りを受けそうで、確かに理解できる面もあると思います。
 たもとを分かつことは容易にできても、和解するということは難儀なことなのでしょうか……
 ですが、それはテロの応酬が繰り返されている宗派間の根本原因とどこが違うのでしょう? 当事者でないわたしには同じように理解できない問題である、との認識になってしまいます。
 この先も、そんなことにならないようにと、祈るばかりです。合掌。

 P.S. ネットで「蓮如は生涯に五人の妻を迎え、二十七人の子をもうけている」の記述を見つけて、何だかこの企画の意欲も失せたのですが、イヤイヤ人間(生き物)の本来的姿とは、かくありなん、とも……

 下は「西」の境内をもの凄いパワーで走り回る子どもたち(石を投げ合ったりするって、何だよコイツら!?)。
 でも、性別や年頃がバラバラなので何か理由のある集団なのか? とも思いました(すごく仲が良くて騒がしい連中なのよ)。
 それも御仏のお導きであるのかも知れません。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

宗教が本質とは違った方向へ向かってしまう・・・どうもこれは仕方がないことなのでしょうか。私も疑問を感じますが、歴史を見てしまうとそういう面を持っているのでしょうね。
このページを読ませて頂いて、感じることはあるのですが、何とも言いようがなく。それでいて「蓮如は生涯に五人の妻を〜」と、「境内をもの凄いパワーで走り回る子どもたち〜」でホッとさせて頂きました。

P.S 昨年、ウチは本願寺の東(大谷派)だと初めて知りました。なんか意味あんのかなー、なんて思ってますが。

mizu さんのコメント...

確かにこれ以上言いようはないかも知れませんね。
時代を比較する事は出来ませんし、現代が不幸な時代ではないとも言い切れません。
では、幸福な時代ってあったのでしょうか? だとしたらどんな時代だったのか、思いだけでもはせてみたいなぁ。
どう生きていくか(5人の妻を迎えようが、養えればいいわけで…)しかないのでしょうか?
そうは思っていても「本当にそうなのかなぁ?」と悩み続けているいるうちに、きっと鐘の音が……

「東」本願寺の宗徒であると分かったということは、大切なお導きです。「東」本願寺にお布施をすべきという道が開かれたわけですから。合掌……