2007/10/24

京都ひとまわりして

2007.10.20
【京都府】

 見づらいですが上写真は、Google Earthの京都付近の衛星写真に足跡を記したものです。

 これでわたしの中では一応「京都をひと回り」ということになります。
 もちろん全部回ったとは申しませんし、見残している場所もあります(桂離宮、修学院離宮は抽選に外れました。苔寺も事前申し込みです)。
 これからはそんな場所をボチボチ埋めながら、お気に入りの場所や、新たなテーマに関する場所を歩きたいと思っています。

 ひと回りした京都についての印象として強く残っているのは「誇り」ですね。
 「ようこそ、おこしやす」と迎えられるわれわれが求めているのは「日本文化」であったりするわけで、それはもう他には残っていないのか? と思ったりしますが、やはり他の地で感じるそれは(わたしは次に日本文化を感じる町として金沢を挙げますが、あの町も京都の影響を受けていると思えます)京都に倣っていると思えます。
 それは瀬戸内など地方(失礼!)を回るほどに京都への関心の高さを感じますし、そんな地方からのあこがれや思いを求心力として成り立っていた(どの地域も京都を見ていた)国家だったのだと実感しています。
 ──今の東京集中とは意味が違うと思いますし、東国の鎌倉にも見るべきモノはありますが、長い目で見ると少々無理があるという気がしてきます。
 「どっちの○○ショー」などで、東京 vs. 京都とかやっても、東京に勝ち目は無いと思われます。それだけ独自に「文化」を守っている「日本の都」なんだと思います。
 ──ちなみに、独自の文化対戦として、沖縄 vs. 京都となると悩んでしまいます……(どちらも都でしたし)
 何だか「日本文化」を求めているとか言いながら「独自の文化」とは何ぞや? と思われましょうが、明治維新以来激変した社会環境を経てこれまで守ってこられたのも京都市民の孤軍奮闘のおかげと思うからです──われわれ洛外の田舎ものは、京都の日本文化(決して高貴なものばかりでなく)を見せていただくという構造を考えれば、納得せざるを得ない気がします。「ちょっと待った!」われわれが「日本文化」と思いこんでいるものは、実は京都だけに花開いた「京都文化」なのではあるまいか? 田舎モンはそれに便乗しようとしているだけ、だなんてひがみすぎか……
 そんな京都の自信は信仰にあるのかも知れない、という気もします。でも京都の人々は、それは信仰ではなく生活習慣と言うのかも知れません(きっと沖縄の人々もそう言うのではないでしょうか)。
 それは信仰心に乏しいと自覚している多くの日本人の弱点なのかも知れませし、それに気付いているからこそ京都や沖縄に憧れているのかも知れません(わたしもそのひとりだと思います)。
 信心の話しもそうですが「伝統」というものは人間活動の積み重ねですから、生活文化をいかに当たり前の生活習慣として苦のない日常に取り込んで、普段の生活として続けられるかにかかっているのではないかと思います。伝統が素晴らしいのではなく、日々を当たり前に暮らしてきた人々こそが讃えられるべきではないか、と思います。
 古いものを土台に新しいものを作ろうとしなかったこと(破壊してしまった後悔)を、今になって「回帰的行動」に走ろうとする団塊のおっさんたちは(田舎に泊まってその地の文化と対座して何を思うのだろうか?)、自身で反省しているのでしょうか?
 「社会」「集団」「時代」という言い訳を、定年後にも言い張るのでしょうか?
 そんな不信感を胸に「あのオヤジ!」と言われないような人間にボクはなりたい……

 壊しちゃったり、作っちゃったりしたものは仕方ありませんが、現在の町作りへの取り組みにはそれぞれの「京都への思い」が感じられるので、これからもっと素敵な町になるのではないかと思われます。

 これからの二周目は新たなテーマと言うか、京都とは切り離せない禅宗をひとつの切り口できれば、と思っています。

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