2008/07/07

135°E longitude──城崎温泉、丹後半島

2008.6.24-25
【兵庫県・京都府】

 先日の友ヶ島(和歌山県)で丹後半島(東経135度線の日本海側)行きを思い立ったとき、真っ先に「城崎温泉リベンジだ!」と心は決まっていました。
 いい温泉街だと感じても、入らなかったでは何しに行ったんだ? と、温泉好きが後悔を引きずっていたもので……


 城崎温泉(Map)

 いでたちにもっとも貫禄があり「ここ!」と心に決めていた「一の湯」を目指したのですが「本日休業」の下げ札。
 これにはさすがにたじろぎましたがそこは観光温泉地、外湯は全部で7つあり日替わりで休業しているらしく、源泉の近くで露天風呂のある「鴻の湯」(こうのゆ:コウノトリが羽を癒した)に入ってきました。
 何はともあれ、苦労してたどり着いたお湯は格別です。
 右写真は源泉のディスプレイで、岩のてっぺんからお湯が噴き出しています。
 付近には無料で利用可能な「足湯」や「座り湯(?)」(いすかと思って座ったら、下にお湯が流れていて湯気で暖かい)などがあります。

 カニの季節でもないので、今回は「芋かけそば」に舌鼓です。
 少なめのだし汁に田舎風のそば、その上にすり芋がかけられたどんぶりが運ばれてきます。1,200円というインパクトに欠ける素っ気なさに一瞬「ぼられたか?」とも。
 麦とろご飯のような感じでまぜて食べるのですが、そばに芋がからまるとスルスルと入ってしまい、あっと言う間に終わってしまうのですが、おいしかったぁ!
 確かに料理は見た目も大切ですが、結局は食後の満足感ですよね、という一品でした。
 行かれる方がいらしたらご紹介します。




 コウノトリの郷公園(Map)

 この日は東側の久美浜(くみはま)から峠道で城崎温泉へ向かったので、帰り道は別ルートを選び走っていると「おっ、このトンネルを抜けると看板があったはず」との記憶がよみがえってきます。
 是非再訪したいとの願望は強くあるものの、前回の失敗もあり城崎とここを一緒に回る時間は無いとあきらめていましたが、看板を見て引き返せないという思いでチラッと寄ってきました。


 この写真では分かりにくいのですが、野生の鳥のように木の枝にとまっています(白っぽいのがコウノトリ)。
 前回は下写真の人工巣塔や野鳥センターの屋根などにとまっていたのですが、今回発展的な個体たち(?)は木の上で群れていました。木の下には飼育地があってそこにはたくさんの鳥たちがいるのですが、みな地面に立っています。
 夕方という時間帯や他にも理由があるのかも知れませんが、わたしにはまた野生への歩を進めているように見えた気がしました。
 人工の巣塔には立ち寄っているようですが、あれではあまりにも人間主体的に過ぎる(観察も主目的に含まれる)ようにも思えますし(自分だって観に行ってるくせに)、他のカップルたちも先住者のいない別のタイプの施設を欲しがっているかも知れません。
 鳥にすればまだまだやって欲しいことはたくさんあることでしょう。
 断片だけを見て物を言うのは大変失礼だとは思うし、大げさないい方かも知れませんが「人間は自然と共存できる」といった「未来」や「可能性」を感じさせてくれる象徴のように思え、感激の涙をにじませながら「応援してまっせ」とエールを送っておりました。
 ホント、この場所に来るととても心が温まり、うれしい気持ちにさせられます。
 「これが当たり前の風景だったのよ」という地元の方の声が聞かれるころに、「当たり前になった風景」を観にいければと思っています。


 P.S. 前回は近くの小学校でちょうど秋の運動会が行われていたこと思い出しました。そんな季節感と共に記憶に残ってくれたこと、大事にすべきであると強く感じました。
 今回は苗が根付いたころの梅雨の合間、という季語(これが文化というもの!)でしょうか。


 小天橋(Map)


 小天橋(しょうてんきょう:天橋立に対抗した名称だそうです)という長く伸びた砂嘴(さし:岬などから砂が堆積して細長く突き出た地形。沖縄、ハテの浜のように陸地から離れているものは砂州)によって、久見浜(くみはま)湾は日本海から内湾として隔てられているため、実に穏やかで風光明媚な内海になっています(天気が良かったらもっと長居したと思います)。
 どこの砂浜も海水浴シーズンの準備が進められていて、海の家の建設や電気工事(上写真)、ブルドーザーが入っての砂ならしなどが行われています(ゴミの清掃は済んでいたようです)。
 日本海側には断崖が続き人を寄せ付けない海岸線も多くありますが、その反面平坦な場所には砂が堆積しやすい環境が非常に多いこと、とても印象に残っています。
 鳥取県の米子から境港にかけてや鳥取砂丘、天橋立、金沢の千里浜等々、元の砂は陸上から供給されたとしても、沖には運ばれずに浜に打ち寄せる波や流れが圧倒的に強い場所が多くあるように思われます。
 冬の日本海の荒波と強風は、流れ出してきた砂をも押し戻してしまうすさまじさで、それは大陸からの大量のゴミも打ち上げてしまう流れであるかも知れません。
 ホント、冬の厳しさが無ければのんびりと暮らせそうないい土地だと思うのですが、いいことばかりの楽園はそうそうありませんわね。
 ですが、求めたい願望を持つのは自由ですから。(下写真は久見浜湾)

 琴引浜という鳴き砂(砂が鳴くわけもなく、鳴り砂が正しいとも)と言って、上を歩くと「キュッキュッ」と音をたてることで有名な砂浜があります。
 結構楽しみにしていたのですが、入り口付近に「本日音は出ません」だったか? の看板が出されており、おまけに駐車料金普通車1,000円とあります。
 しかし、どういうつもりで「音は出ない」の看板を出しているのだろうか?
・音は出ないのだから、残念だけど帰りなさい
・音も聞けないのに駐車料金を出すのはもったいないよ
・音が聞けなくても1,000円払いたい方はどうぞ
 などとも考えましたが、いずれにしても30分程度しかいないのに1,000円は高すぎると引き返しました。
 その後、もう一つ別の砂浜に入る道を目にし、行ってみるとそこにも1,000円の看板があります。
 これ、行政もしくは組合の取り決めみたいなものがあるのではないでしょうか?
 もし興味がおありの場合は、観光バスで行かれたほうがいいかと思われます。
 とてもガッカリで、わたしはもう結構です……


 静神社(しずかじんじゃ)(Map)


 源義経の逃亡に同行したことで有名な静御前(しずかごぜん)を祀る神社で、生誕地とされる網野町磯という集落にあります。
 義経の奥さんかと思っていたらお妾だそうです(正妻は頼朝による縁組みのようです)。
 白拍子(しらびょうし:踊り子と言っていいのか?)という立場ですから仕方のない面もありますが、京で隆盛を極めていた平清盛のお妾となった白拍子である祇王の名は、現在も祇王寺(お気に入りです)に残されています。
 それと比べれば「義経ごときの妾など」(だったのか?)と冷たくあしらわれたきらいもありますが、義経同様の伝説が各地に残されているようです。
 墓については確かなことは分かっていないようですが、ここでは生誕の地として祀っています。
 地理的にも相当厳しそうな土地柄に見えましたし、静御前の伝説を心の支えとされているのではないでしょうか。


 135°E longitude──東経135度線(Map)

 なるほど「東経135度最北の地」(どうもこの字面が好きじゃなくて英語を使いました)であることは理解できるのですが、日本列島の地図を想起したとき京都府が「最北の地」があるということに、すこし違和感を感じました。
 明石を日本のへそと紹介しましたが、日本列島の中でもずいぶんと南北に細い地点を通っているんだ、という印象があります。
 ──お腹周りを計る時に、懸命にお腹をへこませてスリムにしようとしている姿を思い浮かべました(何のこっちゃ?)

 この塔には、日本標準時とグリニッジ標準時が表示されています。
 ここからはどうやっても「グリニッジ天文台」を想起できない場所柄ゆえに、この日本海の断崖の上にモニュメントを作る意味があるのかも知れません。
 ここが冬の風雪に耐える姿にはかなりのインパクトがありそうな気がしますが、ちょっとそれは見に来られそうもありません。
 ──太陽電池で作動している旨の説明がありますが、冬は無理だろうなぁ……

 子午線とは、方角に十二支に当てはめて表現した昔の方法で「子(ね・し)」の方角(北)と「午(うま・ご)」の方角(南)を結ぶ線、というところからきているそうで、知っていたとしてもすっかり忘れていました。

 友ヶ島にあった手作りの標識もいいですが、国土の果てを示す北海道にある標識のような立派なモニュメントを目にできて満足できました(人工物を見ても仕方ないのだけれど、それがなければ判別できないという意味)。


 経ヶ岬(きょうがみさき)(Map)


 映画『喜びも悲しみも幾年月』(灯台守が主人公)の舞台になったとの説明がありました(映画には各地の灯台がいくつも登場しますが、ここが出ていたかはちょっと覚えていません)。どこの灯台守も大変だと思いますが、ここに住み込んで灯を守るのは相当厳しい仕事だったと思われます。
 昨夏に訪れる予定だったのですが、台風の崖崩れで道路が通行止めとなり断念した経緯があります。
 その道も復旧していたのですが、こんな地形の場所に道路を作ること自体に最初から無理がある、と思えるような場所ではあります。
 これまで「落石注意」の看板に「落ちてきたら避けろの意味かい?」くらいのつっこみをしてましたが、岩手・宮城内陸地震の報道を見てからは「落ちてきたら岩と共に真っ逆さまね」との覚悟を決められる気がしています。

 さすが日本海に突き出た半島の先端です、自衛隊のレーダー施設が高い山の峰から日本海を監視しています。
 山道から突然車両誘導用の旗を持った警備員姿の人が飛び出してきて「ねずみ取り?」と一瞬ヒヤッとしましたが、自衛隊車両の誘導をするためだったようです。
 信号を設置したとしても、防衛施設庁の警備に人の配置は必要ですから、きっとこうなるのでしょうね。
 これは航空レーダーと思われ目的が違うので求めるのは酷かも知れませんが、北朝鮮の拉致工作船はこのレーダーの足元を進入してきたことになります(若狭湾はおひざ元)。
 ミサイルなどは、飛来したものを打ち落とせるだけの機能に限定してもらっていいから(それだけでも大変だと思うが)、海岸線からの不審者侵入を防げないだろうか? とは思うものの、草の根の異文化交流を断つことにつながり、鎖国のようになってしまう怖れもあります。


 伊根(Map)


 昨夏も訪れた、舟屋が肩を寄せる港町の伊根になります。
 船の格納場所兼作業場として建てられた舟屋ですが、いまどきの船は大きくなってしまい表に係留されています。
 こうなっちゃうと舟屋が意味をなさないと思うのですが、だからといって大きな港を作れるような場所柄ではないですし、浮き桟橋では冬の季節風に耐えられない恐れもあるので、大規模な沖堤防で湾口をふさいだりするのだろうか?
 「用をなさないものを残せとは、よく言うよ」などと言われるかも知れませんが、舟屋は残す方向で考えていただきたいと思います。

 京都縦貫自動車道(山陽道・中国道から直通)は現在、宮津天橋立インターまで開通しているのですが、このインターがETCカード未対応で出る時にはどうするのかと思ったら、カードを抜き出して料金所のおっちゃんに手渡しして精算してもらいます。
 ──レンタカーで回っているくせにマイETCカードを持っています。いまどきのレンタカーにはETC装置が標準装備されていて、エンジンをかける度に「カードが挿入されてません」のアナウンスの声がしゃくで作ったのですが、これが便利なのです。
 帰りはその入口で通行券をもらい、一般車出口で通行券とカードを手渡しして精算してもらいます。
 まあ過渡期ですから仕方ないとは思うのですが、手動と自動が混在すると「カード、現金どっちで払うの?」などと、便利と安心しきっている心のすきに難問を突きつけられ、ちょっとどぎまぎしてまいました。
 どうせなら「ETCカードは使えません」と言い切ってもらった方が心の準備ができるというものです。

 これで懸案だった丹後半島も完結することができ、とりあえず近畿地方への心残りは無くなったので後ろ髪を引かれることなく、関東に戻ることができます。

 東海北陸道開通のニュースを見ました。次の狙いはそのあたりでしょうか?
 ──これからはそうそう気軽には行けないことを、まだ理解できていないようです……


●アイデンティティを自覚した時──2008.07.01

 高槻で借りていた部屋を引き払い、東京へ向かう京都駅の新幹線ホームから清水寺などを抱く東山方面を眺めていると「これでお別れか」との寂しさが襲ってきます。
 お気に入りである沖縄を後にする瞬間に似た感覚でもありますが、「また来るから」ではなく「ここでは暮らせないのか」という(これぞ)都落ちとの印象を強く感じました。
 「新幹線は速いな!」(何を言ってるんだか? ですが)あんなに時間をかけてポクポクと歩いた京都、山科、琵琶湖岸がものの15分で車窓から消えていきます……

 地方を旅行する度に「東京者には故郷はない=アイデンティティの不在」を振りかざしていたのですが、新幹線の車窓から景色を眺めながら「戻る場所は東京圏なんだ」と、「帰る場所」として初めて東京という地域を意識しました。
 「イヤー、参っちゃったよ!」などと、シラーっと柴又に戻ってくる寅さんのようなつもり、だなんて言ったら怒られそうですね。
 まあ何を言われようが、2年間の都勤めを終えて参勤交代で「東国の野蛮人」(平安時代の都での評判)が群れる東京に戻って、現実に復帰します。
 そんな東京へ向かう新幹線の中でわたしは初めて「東京人である」とのアイデンティティを自覚しました。

 東京着後の第一印象
 「東京は涼しいなぁ」でした……

2008/06/30

あさき夢みし──地蔵院

2008.6.10
【京都府】

 近ごろ引越しの準備等で新幹線に乗る機会が多いのですが、必ずと言っていいほど修学旅行の団体に遭遇します。
 この数日間はいつにも増してハイテンションで古都を駆け回っていたろうに、帰りの新幹線でも席に座らず騒ぎ回っております。どこにそんな元気があるのだろう? 先生方はいすに腰掛けあくびをしています……
 約30年前には元気玉のようだった(?)わたしですが、その時以来となる古都との再会に、現在の自分としてはかなりのハイテンションで歩き回ったつもりでおりましたが、新幹線では当然のように居眠りをするようになってきました……


 地蔵院(Map)

 この鮮やかな緑は「かえで」です。
 主役とされるのは紅葉の時期に違いないのですが、この時期の青葉の輝きも本当に見事です。
 もし可能であれば、紅葉の名所とされる場所を新緑の季節に訪れてみてはいかがでしょうか?
 きっと、この緑のまぶしさもまぶたに焼き付くのではないかと思われます。
 ──それがまさに「四季を楽しむ京都の文化」なのだと思います。この季節でもウグイスの鳴き声がとても印象的で、いまどきは子育ての頃でしょうか?

 門の奧に見えるのは竹の幹で、竹の寺と呼ばれるにふさわしい存在感があります。
 この日は結構風があり、はるか上の方から風に揺らされた竹同士の「カサカサ」とこすれ合う音が聞こえると、ほどなく樹皮(というのか?)がハラハラと舞い落ち、光に照らされとても幻想的な光景を作り出します。
 ──しばらく粘ったのですが、三脚でじっくり構えないとちょっと難しい絵柄という感じでした。


 ここは再訪を最後まで取っておいたお気に入りの場所です。
 わたし好みの静かな一画で、近くにある苔寺(西芳寺)と同じく臨済宗の禅寺になり、南北朝時代の武将である細川頼之(よりゆき)が、夢窓国師(むそうこくし)の弟子を招請して開いたそうで、一休さん(一休宗純)が幼少時代を過ごされたそうです。
 細川家は鎌倉時代から現代まで続く名家だそうで、傍流(嫡流ではない)とは言え江戸時代までは熊本藩主だったわけですから、細川護熙(もりひろ)元首相が地元で「殿」と呼ばれるのも理解できます(ここを訪れた時の写真が飾ってありました)。
 大徳寺にある細川ガラシャの墓など、京都では細川家ゆかりの記述をよく見かけますが、それこそ室町の時代から続いている名家の証しなのでしょう。
 ──本件に関してあまり感心はないのですが、これまでガラシャ夫人にふれなかった気がしたもので。

 境内に人影はないのですが、奧にある方丈の縁側には10人ほどが陣取りペチャクチャしゃべっていて「あぁ、ガッカリ……」。
 やはり「京都は冬に限る」です。
 前回もふれた玄関脇にある「くすんだ鏡」ですが、前回よりクッキリと自分の姿が映されている印象を受けました。掃除したのだろうか?
 季節によって変わるのか、自身の心に左右されるのかはちょっと不明ですが、そのにぎやかな方丈には居場所のない自分の姿はクッキリと見て取れました。


 やはり禅寺も冬に限るのかも知れません。
 厳しい環境の中でこそ自身と向き合い、瞑想ができるということなのでしょう(冬は静かな場所ですよ)。
 また冬に来なくちゃ!


 松尾大社(Map)


 松尾大社の鳥居に下げられた「榊の枝」です。
 これは神社の中でも結構古いしきたりになるそうで、現在においてはアイデンティティのアピールとも言えそうです。
 下写真は渡月橋より。


 タイトルの「あさき夢みし」の言葉をわたしは、実相寺昭雄(じっそうじあきお)監督の映画タイトル(1974年)から拝借したつもりなのですが、調べてみれば確かに「いろは歌」の最後に「あさきゆめみし ゑひもせす」のくだりがあること思い出します。
 意味などは全然分からずとも、五十音が並んでいる語呂合わせとして記憶にたたき込まれた、という印象がありました。
 確かに学ぶ側の関心の無さという問題はありますが、教える側にもそこに込められた意味をちゃんと説明していたのか、という疑問もあります。
 しかし、そこに込められた本質的な意味については、無常観をうたった歌、仏教的な内容の歌であるなど、さまざまな解釈がされていたりとあいまいなものだそうです。
 わたしは「はかなき夢をみた」という意味で用いようと考えたのですが、本来の意味は「そんな夢もみずに」なのだそうです。
 何とも「もやもや」した説明になってしまいましたが、京都での見聞もしばらくするとそんな「もやもや」した経験談になるのだろうと、テーマとしてはあながち外れてはいないのでは、と思っています。
 引越しも目前に迫り、京都(関西)からのレポートはこれが最後となります。
 ──プータローのくせにいつまで遊んでいるんだ! の声も聞こえそうですし……

 「人生の中で、毎週末京都へ遊びに行ける場所で暮らせたことに感謝!」との、あまりにも貴重で楽しい日々だったので、こんなレポートですが自分としては、外から見れば「アホちゃうか?」と思われるくらい力を入れておりました。
 「来週も遊びに行きたいから、見たモノは早く片付けねば」との思いから夜中までやってたりと……
 被写体が素晴らしいので、写真を撮るのが楽しかったことと、それをどんな形であってもまとめておく習慣づけができたことは、とてもいい経験になりました。
 新幹線から京都駅に降り立ったとき「あぁ、帰ってきた。ただいま!」と思うこともなくなるのかと、すこし寂しく思える程度の里心がついたということも、こちらでの2年弱の生活の思い出になるのではないか、と思っています。

 東京に戻って続けられるかは不明ですが(行ってから考えます)とりあえずは、これまでお付き合いいただきありがとうございました。

 高槻にて。


 P.S. おまけの1本は引っ越しが落ち着いてから追記させてもらいます。

2008/06/10

ここも野鳥の楽園?──植物園、鴨川(賀茂川)

2008.6.8
【京都府】

 京都府立植物園(Map)


 雨の予報だったのでのんびりするつもりでしたが、梅雨の晴れ間に誘われてのこのこ散歩に出てきました。
 地下鉄の北山駅下車になりますが、駅の上を通っている北山通り沿いには気取ったお店が並んでおり、その手の女性が闊歩(かっぽ)する一画になります。
 またチャペルを併設したおしゃれな結婚式場がいくつもあり、この日はそんなお日柄だったのでしょうか、着飾った集団をいくつも目にしました。
 そりゃ6月の日曜日ですものね……

 特に目的が無いと来てしまうのですが、規模は大きくなくともそこは植物園、季節ごとに見るべきモノがあるので裏切られません──エッ、着飾った女性? オヤジと言われます……
 いまどきは菖蒲とアジサイ(アジサイ園はパッとしなかった…)、ハスはもう少しあとになるのでしょうか。
 手前のむらさきの花は「アリウム・ギガンテウム」というネギの仲間だそうです。
 大木に実がなっており近づいてみると、ヒマラヤスギにマツボックリのようなモノがいくつも枝の上につぼみのように上を向いてついています(右写真)。
 スギなのにマツボックリではおかしいわけで「球果(きゅうか)」というのが正式な名称のようです。でも遠くから見ると大木に花が咲いてるように見えるコントラストです。

 植物園を出て、賀茂川沿いを下りました。
 「鴨川」の名称は、上賀茂神社方面の西側から流れる賀茂川と、大原方面の東側から流れる高野川が、下鴨神社の南に当たる出町柳(でまちやなぎ)付近で合流した下流の名称になります。
 土曜に比べると日曜は観光客は少なく、近所の人が散歩やウォーキングする姿が多い気がします。


 出町柳(でまちやなぎ)──鴨川合流地点(Map)

 この合流地点の河原にはちょっとしたスペースがあって、のんびりするにはいい場所だと思うのですが、いつも京都大学のテントが張られており何かしらのイベント(合コン系)をやっています。
 キャンパスが近いので分かる面もあるのですが、京大が何かやるとなるとワッと人が群れるような印象があり、こちらでは京大が人気独占のひとり勝ち(東大+慶應という感じ)なのでは、と思ったりもします。


 この合流地点には川を渡れる飛び石があるのでそれを撮ろうと思ったのですが、晩の雨で水かさが増えて水没しているため他の絵を撮り、振り返ったすぐ近くに何かがいて驚いたのが、この写真のサギでした。水音が大きいので全然気付きませんでした。
 獲物を狙っているのは分かるのだけれど、逃げないんだよね。と言うか、ここが彼(or 彼女)のテリトリーだったのかも知れません。
 京都の人たちは野鳥を静かに見守っているからなのか(餌づけしているのだろうか?)、「お前らには捕まらないよ」の余裕なのか、人を怖がらないおかげで至近距離(5mくらい)から撮ることができました。
 10分くらい対面していましたが、そんなしぐさを観察していると飽きることもなく、バードウォッチャーの気持ちが理解できる気がしました。
 しかし、そのためには虫よけを常備しておかねば。虫に刺されてもジッとしてないといけませんから……

 こちらに来て、河原がある程度の川には当たり前のようにサギ類が見られることに驚きました。エサとなる虫や小魚がいるからでしょうし、少し離れれば田んぼなども結構あります。
 この程度の環境が、野鳥が暮らせるギリギリの線かも知れないとも思うのですが、餌づけ等の情報がありましたら教えて下さい。
 

 上は、遅ればせながら先日の「鯖街道」の起点の写真になります。
 鯖街道の道すがらどこで目にしたのか忘れましたが、昔、海外の人を通訳しながら京都を案内した人が、鴨川を「river」と訳して「これがriver?」と笑われたことがあったそうです。
 「river」は「大河」のような意味で用いられるそうですが、言葉本来の意味はもちろん、文化の違いもあるかと思われるので、現代の日本通の外国の方にどう表現するのがふさわしいか、お聞きしてみたい気がします。

2008/05/20

若葉のころ──平等院、東寺、涉成園、坂本

2008.5.15-18
【京都府・滋賀県】

 宇治 平等院(Map)

 京に戻ってまいりました。
 新緑のまばゆい、散歩には絶好の季節到来と言えます。
 ──右写真は、宇治川に浮かぶ橘島から東岸の宇治上神社側を望んだ絵になります。6月から始まる鵜飼い船や鵜の入ったおりなども見ることができます。いよいよこれからがシーズンですから、人出もスゴイことになるのでしょう。

 今頃の京都は修学旅行の季節でもあります。
 中学の修学旅行は京都だったのですが、きっとこんな時期だったことと思います。
 当時は何せ初めてですから、この季節が到来することを山や里を挙げて喜んでいるなどとはみじんも感じることなく、目の前の中学生たち同様に駆け回っていたことでしょう。

 「アーッ、疲れちゃったぁー」と、周囲に訴えるようなため息をつく引率のおばちゃん先生。自分だけ休んでるわけにもいかないから大変だよなぁ、と思うそばから「先生!」「先生!」の声がかかります。
 そんな時分「○○(先生の名前)のヤツ、あんなところで一服してるよ」などと言っていたことを思い出します。「しょうがねぇなぁ、待っててやるからよー」「サンキュ、悪いな!」それくらいは大目に見てあげようよ……
 場所が変わると、先ほどのおばちゃん先生は旗を持って子どもたちを先導しています。大勢のガキに付き合って歩き回るんだから、並大抵の消耗ではないと思われます。
 今晩はゆっくりとお休み下さい……

 ──右写真は平等院鳳凰堂の屋根の両端に一対で飾られてある鳳凰で、一万円札の福沢諭吉の裏側に印刷されているものです。「平等院と言えば10円玉」と思いこんで「三つ子の魂……」でいたのでは、いつまでもお金に縁がない、ということにもなりかねません。とは言え、今回初めて知ったのですが、ご存知でした?

 前回も見とれてしまった鳳凰堂ですが「何でこんなものが作れちゃうんだろうなぁ」と、今回も口あんぐりです。
 ひとつの理想としての浄土観は見事に伝わってくると思うのですが、心が安らぎすぎて働く意欲を失ってしまう人もいるのではないか、とは心を許しすぎでしょうか?
 やはり国を治める者には、理想が必要なのかも知れませんが、では現在の「国の理想」とは何なのでしょうか?


 東寺(Map)

 前回寄れなかった、隣接する観智院には宮本武蔵によるとされる襖絵が残されています。経年劣化のためか、ディテールが判別できずに残念です(右写真は観智院)。
 巌流島の決闘前の作とのことで、その精神修行のために長谷川等伯(智積院の屏風絵に心奪われた)の指導を受けたとの、説明文があります。
 巌流島云々の部分に引っ掛かったので調べてみると、長谷川等伯に師事したことも諸説あるらしく、信憑性については分かりませんでしたが、元々書画には定評がありますものね。

 金堂や講堂には国宝や重要文化財の像が並んでおり「見せられるものは国宝でも全部見せる」という姿勢が伝わって来ます。襖絵や屏風絵のような美術品とは違い、ここでは信仰の対象としての使命である「対面」が果たされています。
 今回も講堂の立体曼荼羅の迫力に目を奪われましたが、その顔立ちが中国というよりインド系であることが印象に残っています。
 ──三十三間堂の精神にも通じる、古き仏教への思いが伝わってきます(東寺の方が古いようです)。奈良東大寺の法華堂にも名高き立体曼荼羅があると知りました。機会があれば是非とも。

 「お四国巡礼の前にはこちらにお参り下さい」と大師堂にありましたが、そんな決まりもあるそうです。
 ──お大師様(空海)は、密教の奥義の伝授を受けた中国から帰国後に高野山を開き、その布教活動が政府に認められて東寺を任せられたそうです。都の出張所というような性格でしょうか?

 修学旅行生やお遍路さんも大勢訪れますが、寛容さを感じられる気がするからでしょうか(縛られない感じがします)、ここの空気はとても好きです。
 毎月21日の月命日には「弘法さん」という市が立ち賑わう様子をテレビなどで目にします(右写真は五重塔)。


 涉成園(しょうせいえん)(Map)


 ここは東本願寺の別邸になります。
 作庭には詩仙堂の石川丈山がかかわっているとのことです。
 別名である「枳殻(きこく:中国名)邸」の名は、以前は周囲を枳殻(からたち)の生垣に囲まれていたことに由来するそうです。
 枳殻は中国から伝わったもので「唐橘(カラタチバナ)」の短縮形なんだそうです。葉はアゲハチョウの幼虫の好物だそうで、そう言えばサナギがいっぱいあったっけ……
 と言うのも、子どものころによく野球をした公園にこの生垣があって、ボールが入ると腕を傷だらけにしてボールを取りだしていました。軟式のテニスポールはパンクしてしまうし、子どもの目には「トゲだらけ」にしか見えない植物を生垣に使用したのか理解できないでおりました。枳殻(きこく)邸の頃からカラタチは防犯用であったそうなので、そんなものを児童公園の生垣に使った設計者に対し、今さらながら文句を申す! (最近では生垣にも使われなくなったそうです)

 上写真は前回も撮った、門前にあるオブジェとしか思えない高石垣(真ん中の石は「石臼」だったのでしょう)ですが、やはり引かれてしまう迫力がありました。
 右写真は、庭を眺める広間のような建物の窓に映った絵を取り込んでいます。

 京都駅から徒歩10分弱の土地に、これだけの庭園を維持できる東本願寺の財力には頭が下がります。
 でも、庭の素晴らしさには宗派云々といったこだわりを抜きにして、素の心で接することができるわけですから、新幹線まで時間が空いた時などにいかがでしょうか?
 わたしは好きな庭です。


 西寺跡(Map)


 西寺跡は公園になっていて、にぎやかな声がたえません。石碑や礎石は小高い丘の上に残されています。
 もう少し何か残してもらいたい気もしますが、羅城門跡と同じく子どもの声が響いていることが救いなのではないでしょうか。
 調べてみても、どうも西寺に関する資料を目にすることができません。
 これは推測ですが、京の右京(西側)が寂れていった理由にも通じるような気もするので、機会があったら調べてみようと思っています。


 坂本(Map)


 ここは比叡山を挟んだ反対側の琵琶湖畔というか山すそにある町で、滋賀県側から山を登るケーブルカーの駅と、甲子園で耳にしたと思われる比叡山高校があります。
 比叡山延暦寺の門前町としての歴史を持つ町で、ふもとにたたずむ日吉大社への日吉参道(上写真)をはじめとして、立派な石垣がとても印象的な町並みになっています。

 背後に山をいただく立地を生かして日吉大社の境内には水路が配されています。
 右写真は本流付近の茶屋ですが、その上流から引かれたと思われる幅30cm程度の水路が、山の傾斜を段々に整地して建てられた本殿の周囲を流れてまた集められ、低い場所にある次なる本殿の周囲を流れる、という趣向が凝らされています。
 うっそうとした山の中に「サラサラ」と聞こえてくる水音は実に心地の良いもので、同じ場所にとどまれる状況を想像してみると以下のようなことしか思い浮かばなかったのですが、墓石はこんな場所で苔むしていたいものだ、とも思う落ち着ける空間になっています。

 まさに「季節はこれから」と思わされますが、あっと言う間にジメジメがきてしまうことを考えると「遊ぶのはいま!」と、今週ちょっと遊びに行ってきます。

2008/03/31

奈良・京都、文化のはざま──木津川周辺

2008.3.28-29
【京都府】

 上津屋橋(こうづやばし)(Map)


 やっと(?)「毎日が休日」に突入したので、前々日に車と宿を予約して郊外に足を伸ばしました。
 木津川は三重県の青山高原の源流から奈良と京都の県境付近を流れ、京都と大阪の境付近で桂川(鴨川も合流)、宇治川(琵琶湖からの流れ)と合流して淀川となって大阪湾に向かいます。
 ここから下流の「東西に流れる川」に対して感じる違和感というものをご理解いただけるだろうか?
 生まれ育った関東平野では、相模川、多摩川、荒川など、川はみな北から南に流れて海にそそがれます。それを「縦に流れる」と表現するならばここでは「横に流れている」わけですから、太陽との位置関係や町並みの設計や家屋の建て方から受ける違和感にとまどってしまい「異国の印象」すら抱いてしまいます。
 関東の川の両岸から川の方角は東もしくは西向きになるので、何となく両岸の家並みも川を向いていますが、ここの南岸から北側の川に向いた大きな窓を持つ家は少なく感じます。
 人間にも体内に磁石のようなものを持っているようにも感じられ、わたしがサケの子どもだったら間違ってもこの川には戻って来ないだろうと思います。
 ──人間にもそんな方向感覚って大切だと思うのですが、方向音痴の人ってそういうことって感じないのでしょうか?

 上述の三河川の合流地点から5km程度上流に、増水すると踏み板が橋脚から外れる「流れ橋」の上津屋橋があります。
 板が外れてもバラバラにならないように、ワイヤが通されているのが写真から分かると思います。
 この橋の存在を知ってからずっと、映画『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)の撮影場所ではないか? と思っていたのですが、もう記憶があいまいで分かりませんでした。再見してみます……


 海住山寺(かいじゅうせんじ)(Map)


 無理やり作ったと思われる道路は、急カーブ、急勾配で山を登っていきます。「この地にお寺を開く理由って何なのだろう?」と調べてみると、ここは奈良にほど近く一帯は奈良の文化圏に含まれ、奈良時代の有力豪族(橘諸兄:たちばなのもろえ)の本拠地で、735年に間もなくこの地に遷都することになる聖武天応の命によって建立されたそうです。

 この五重塔は鎌倉時代建立と伝えられ、日本で2番目に小さいものだそうです。まさに必要最小限の五重塔との印象です(写真は塔の1階部分)。
 

 恭仁京跡(くにきょうあと)(Map)


 740年聖武天皇により平城京から遷都されたものの、完成をみずに743年に紫香楽宮(しがらきのみや)に移り、744年に難波京、745年平城京に戻ったとのことです。
 わずか3年間の都だったり、転々としたあげく戻ったりと何のための遷都だったのでしょう?
 おそらく有力豪族間の権力争いに翻弄(ほんろう)されたのかも知れませんが、庶民には迷惑な話です。
 平安京(京都)遷都(794年)が数十年後にあったことを考えれば、奈良政権の末期的状況の現れのようにも思われます。
 ですが、奈良時代とは710年〜794年とされているので、権力抗争に明け暮れた時代だったと言えるのかも知れません。

 「恭仁宮大極殿跡」の石碑が倒れたまま放置されています。表には正規のものが立っており、別に荒れ果てているわけではないのですが、こんな姿で放置しておくのも何だかなぁ、と思ってしまいます。


 笠置寺(Map)


 この寺の起源は古いようで、弥生時代の祭祀に使用されたとされる石の険が出土したことから、当時から巨岩が信仰の対象とされていたと考えられているそうです。
 寺院の建立は670年代で、修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)が詣でたという記録もあるとのこと。
 境内というか、山肌に露出する巨岩をめぐる散策路全体が信仰の対象とされる修験道の修行場のような趣で、結構ワイルドな道です。
 鎌倉時代末期には後醍醐天皇が立てこもり、鎌倉軍に討ち滅ぼされ寺も焼失したそうです。
 まさか彼(天皇)は自分の足で登らなかったでしょうが、かなり急峻な山の上にあります。


 岩船寺(がんせんじ)(Map)


 「花の寺」とうたっているだけあって、決して大きなお寺ではないし、花の数が多いわけではないのですが、その配し方が見事と言うのでしょうか「センス」が素晴らしいと感じました。
 今の時期は、梅が咲きモクレンのつぼみが開花の準備をしている早春という季節感ですから、花は決して多くありません。
 ですがこの地ではきっと、季節の移り変わりを花の(木々の)姿から日々感じることができると思われ、見事に設計された庭園という印象を受けました。
 写真で切り取る風景が季節ごとに変わっていくのだろうと、通ってみたいお寺のひとつに加わりました。
 右下写真は、楓と思われる枝に新芽が芽吹いている絵になります。これが紅葉したらきっとキレイなんだろうと、想像でも楽しめる境内です。

 ここも聖武天皇の命により、行基(奈良時代の僧侶)によって建立された(729年)そうです。
 情勢の流れ的には、奈良の盆地から離れたいという機運が高まっていた時期だったように思えます。

 この辺りは当尾(とうの)と呼ばれ(浄瑠璃寺を含む)、付近には当尾石仏群とされる鎌倉時代の石仏(野仏)や石塔が多数残されてていて、この日も石仏をめぐって散策する人が結構出ていました。
 やはりその印象も奈良盆地にある「山の辺の道」の散策路に近いものがあり、現在ここは京都府ではあるのですが、奈良の文化圏であることを感じさせてくれます。
 平安京に遷都されてからはこの辺りへの政府の関心も薄れ、鎌倉時代末期まで野放しだったのではという気もしましたが、それは歴史教科書で扱われていなかっただけで、関心があるならちゃんと勉強せい! ということですよね……



 浄瑠璃寺(Map)


 平安時代藤原氏の創建のよるものだそうで、建造物は三重塔のある東岸「此岸」(しがん:現世)から池をはさみ、西の彼岸の本堂にまつられる阿弥陀仏に来迎を願う」ように配置されていて、春・秋の彼岸の中日には彼岸の阿弥陀仏の後方へ太陽が沈んでいくとのことです(写真は東岸から西方浄土の阿弥陀仏がまつられる本堂をのぞんでいます)。
 ──平等院の鳳凰堂もそういった思想の元に建てられているとのこと、知りませんでした。また行ってみます。
 本堂には9体の阿弥陀如来像が安置されています。それは「九品往生」(くほんおうじょう)思想に由来するそうで、東京の「久品仏(くほんぶつ)」の由来も同様か? との連想しましたが、確かめに行きたいと思います。


 大河原 沈下橋(Map)


 「恋路橋」と、どうも新しい小さな石碑がありました。
 この橋の対岸には「恋志谷神社」があるそうで、そんなところからのネーミングと思われます。
 わたしは、渡りませんでしたが……

 前述の上津屋橋同様、洪水時に流されにくいよう簡素な構造の「沈下橋」で、四国(四万十川、吉野川)でよく見られました。
 ここもかなりの暴れ川だったことが想起されます。


 生駒山(Map)


 下から山を見上げて「きっと眺めがいいんだろうなぁ」とずっと想像していたのですが、想像通りの見事な眺めでした(大阪市街を望む)。
 東京にはこんな場所はないので、とても新鮮な景色に映りました。
 別にキレイな景色ではないのですがね……

2008/03/24

シーズン開幕──六波羅蜜寺、智積院、三十三間堂

2008.3.22
【京都府】

 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)(Map)


 プロ野球開幕、春の甲子園開幕と時を同じくして「京都の観光シーズン開幕」です。
 一週間前とは明らかに人出の勢いが違います。行きの電車座れなかったもんなぁ。「エッ、そんなことで?」そういう実感こそ大切にすべきであると思いますし、散策を終えて何度か寄っている喫茶店も満席でした……
 違う店ですが、今年初めてアイスコーヒーを頼みました。そりゃ、そんな季節にもなれば人が出てくるのは当たり前ですよね。

 上写真はお寺の前に貼られているポスターを撮った「携帯写真的」なひどいもので申し訳ないのですが、この絵がないと始まらないと思い載せました。
 パンフレットに「空也の寺」「源平両氏の中心史蹟」とあります。前回時間が遅くて拝めなかった空也像を見にきました。
 どうもわたしには、写実的な像なのですが何だか寓話的な作り物という印象が強く、感銘を受けるに至りませんでした。
 鹿の杖を持ち、金鼓を下げ、唱えた念仏から六体の阿弥陀が現れたという「伝説」をそのまま木造に表現しただけ、との印象以上のものを感じることは出来ませんでした。
 そんな印象とは逆に平清盛像は、いまにも動き出しそうな生命力のようなものが感じられ、とても引き込まれました。
 これは後でパンフレットから知ったのですが、空也という人は醍醐天皇の子息で西暦900年代の方で、この像は鎌倉時代(1200年代以降)の運慶(仏師で、先日運慶作と言われる仏像が海外のオークションに出て話題になった)の四男の作品と言われるそうです。
 これはまるっきりの想像ですが「歴史上の人物を彫ってみよう!」という流れの中で生まれた、まま出来のいい作品として残されてきたのであるまいか、などと思ったなんて言い過ぎでしょうね……
 空也に関連する寺は(神社だったか?)繁華街の四条にある高島屋の裏にもあったりするので、人々に愛されてきた人だと思っており否定するわけではありませんが、皇族の出というだけでフィルタをかけて見てしまう姿勢は良くないのかも知れない、と自分でも思ったりします。
 「森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日あることを喜び、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えた」(パンフより)とあるように、高僧と言われるような権威とは無縁で、市民の中に入って「念仏の祖」と言われるほど民衆のために尽くされた方だそうです。
 世間では「市の聖」(いちのひじり)と呼ばれ、尊ばれたそうです。それは人においての「誉れ」であると思います。
 人物像についてはそんな認識はあるのですが、あの木造にはどうも……

 正月らしいねぇ、と飲んでいた「大福茶」(紅白の小梅と結び昆布が入っている)ですが、ルーツは空也が疫病で苦しむ者にそれを与え念仏を唱えたことから来ているのかも知れません。
 現在でも「皇服茶」として、正月にふるまわれているそうです。


 少し前の大河ドラマ「義経」で義経(タッキー)が平清盛(渡哲也)を「六波羅様」と呼んでいたのが気になっていて、どこかで習った「六波羅探題」に由来するのだろうか? に疑問ついて、ようやく調べる機会を得ました。
 六波羅とは、空也が創建した西光寺が後に六波羅蜜寺と改名され、この付近の地名になったそうです。
 この付近に平家が供養塔を建てたことから六波羅邸が築かれ、清盛の時代まで「六波羅様」と呼ばれるようになったようです。
 その後、平家の都落ちの後は源氏の所有物となり、京都守護職としての役所「六波羅探題」がこの地に置かれたそうです。
 ──何か、とってもスッキリしました。
 ちなみに寺の名前にもある「六波羅蜜」とは、「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」なるものだそうです。
 長くなるので、興味のある方は調べてみてください。

 この地は洛外(都の外)であることを考えると、その当時武家はそう簡単に洛中に屋敷を構えることがかなわなかったのではないか、と思ったりします。


 観光客や彼らを乗せたバスがみな黙々と坂を登っていきます。
 そう「めざせ、清水寺」です。
 そんな人たちが密集した清水寺の状況を想像すると、ゾッとします……
 そんな流れを横切って五条坂付近の路地を歩いていると、河井寛次郎記念館などがある陶芸家が集まっている地区があります。
 清水焼の流れの工房が多くあるのかも知れませんが、ちょっと陶芸には暗いので定かではありません……
 その近くにレンガ造りの建物があります。写真は外壁だけが遺構として残されているもので、建物の一部ではありません。
 そんなレンガ塀一枚を残すために木で支えられていたりするので、由緒のあるもののようです。その壁にわざわざ街灯を設置してあるところなんかに、粋さを感じたりしませんか?


 智積院(ちしゃくいん)(Map)

 また来てしまいましたよ、長谷川等伯(とうはく)の襖絵を見に。
 イヤー、もう声が出ませんね。
 キンキラした絵って好きではないのですが、この絵はずいぶんと色あせていてちょうど「枯れた迫力」を感じられるからか、たまりません。大好きです。
 わたしもちゃんとした背景を分かっていないのですが、利休や秀吉の名前が出てきたりするので安土・桃山時代の人物(作品)で、よく耳にする狩野派(パンフレットより:威圧的か装飾的かの傾向に走った狩野派)に入門したそうですが、作風が合わずに対立していたそうです。
 写実的な部分と、デフォルメ(いい加減と言うか、大胆に隠す構図と言うか)された部分が何の違和感も感じさせず調和して観る者に迫ってくるとでも言うのでしょうか、説明を放棄しているようで申し訳無いのですが、何だか「魔法」のようです(魔法にかけられてしまうわたしです)。
 ──以前紹介した、お猿さんが片手で木にぶら下がり手を伸ばしている猿猴捉月図も長谷川等泊によるものだそうです。

 ちょっと、もう少し勉強してから再チャレンジしたい絵です。

 何だか本日は着物の女性が多いと感じたのですが、このお寺には「着物の方は拝観無料」の看板が立っており、春の花灯路(夜間ライトアップ)が日曜まで行われている一環で、東山地区一帯でそんなキャンペーンをやっていたのかも知れません。
 しかし、その着物に華やかさを感じなかったのは、春着物の色柄は控えめのものを着るなどの作法があったりするからでしょうか?
 この点についてご存知の方がおいででしたら、ご教授下さい。
 着飾った姿が「春の陽気に太刀打ちできていない」と言うことが不可解で、逆に「春の空気を引き立てる」意図であるならば納得出来るような気がするもので……

 右写真は立ち入り禁止区域をその手前から撮ったものです。
 その入り口にしゃがみ込んであれこれやって、もういいやと立ち上がって振り返ったその場に、住職さんらしき方が立っておられ、わたしの気が済むまで待ってくれていたようです。
 恐縮して思わず「スミマセンでした」と声を発しましたが、無言で入っていかれました。
 あまりいい写真とは思えませんが、このエピソードを書くために掲載しました。迷惑な話ですものね……
 いつも思うのですが、いくらカメラを構えていようがズカズカとフレームに入ってきても構わないとわたしは思うのですが、どうも遠慮する習慣があるので、ハプニング的ライブな写真って撮りにくい気がしています。(それは遠慮してくれてるのに失礼ってもん?)



 三十三間堂(Map)


 是非再訪したいと思っておりました。
 もう、静かなうなり声を上げ、手を合わせるしかありません。本当にシビレちゃいます。
 自分で気に入ったものを他人に薦めることはしても、同意を求めたりはしないつもりなのですが(広隆寺の「弥勒菩薩像」がいくら好きでも)、この三十三間堂の千手観音像の前で何も感じない人はどんな人なんだろう? と逆に話しを聞いてみたい気がするほど圧倒されてしまうわたしです。
 全部で1001体ある像を彫った人たちの祈りが、もしすべて一時に我が身に伝わってきたとしたなら卒倒してしまうのではないか? と思ったりもします。
 創建は平清盛によるものだそうですが、幾度の修復を繰り返し現代まで守り継がれてきたということが「無常であっても無常ならざるものへの希求」(浄土を求める気持ち)が連綿と続いていることの証しであり、わたしたちが感銘を受ける最も大きな理由であると思われます。
 現世では逆らえないことであるから死後の浄土を願うという気持ち、というものは理解できる気がします。
 それを信じていれば、安らかな最期を迎えられるであろうことも……
 しかし、そのために観音様が1001体必要であるならば、地上は観音様と亡きがらで埋め尽くされてしまうようにも思えます。
 でもそんな絵を想像してみると、不思議と自然に思い浮かんできました。もちろん、現実になって欲しくない絵です──戦場のような絵とでも言うのでしょうか。
 それがわたしの「おそれている状況」なのでしょうか、紙一重という天と地を垣間見られた気がするのも、心を解ける場所にいるからかも知れません。
 しかし、ここで気持ちをしっかりと持たなければ「神・仏の虜」になってしまいます。
 何が言いたいかというと「すがる」のではなく「苦しいときに祈る」という、日本人の「神仏とのスタンス」に魅力を感じている、とでも言うところでしょうか。
 来月予定している沖縄編で、触れられたらと思います。


 「もう拝観終了なんです」と警備員に説明を受ける観光客が「それじゃ清水寺に行こうか」と、これから(午後4時)向かう人がおります(この日清水寺はライトアップしているので余裕なのですが)。ホント、清水寺恐るべしです……


 豊国神社(Map)


 秀吉創建の大仏があった場所です。
 この石垣の岩は3〜5m程度あり、相当デカイです。どうやって運んだんだろうという巨岩の石垣が、現存しているもので2〜300mくらい続いています。
 「太閤検地」で厳しく取り立てられた税を、こんな石垣や大仏建設に使われたと知った人たちはどう思ったのでしょうか。
 何度も再建されたそうですが「京都に大仏はいらぬ」との天命なのか、その度難に遭い石垣だけが残されて現在に至っています。
 この西側に大仏様の正面の通りという「正面通り」の名称が今も残されています。


 大仏殿跡地に、秀吉を祀る豊国神社があります。
 そこの絵馬は、ひょうたんに願い事を書きます。芸事にご利益があるそうで、役者さんや歌手の札が見本として飾られていました。